至福の読書・魅惑の世界旅行

読書の海・世界の空  海外添乗歴30年  元添乗員の読書&海外旅行案内

レマン湖・スイス「チャップリン自伝」

・運命の女神たちが人間のそれを決定するとき、そこには憐憫もなければ公平感もない。

・…母はわたしよりも冷静だった。「イエスさまはね、おまえがまず生きて、この世の運命を全うすることをお望みなのだよ」と、説いて聞かせた。その夜、母は…生れてはじめて知る暖かい灯をわたしの胸にともしてくれた。その灯とは、文学や演劇にもっとも偉大で豊かな主題を与えつづけてきたもの、すなわち愛、憐れみ、そして人間の心だった。

・わたしはさようならをいうのが嫌いだった。身内や友人と別れる悲しみは、見送られることによって、いっそう増すばかりにきまっている。

・この熱狂的な歓迎を、わたしは心ゆくまで楽しもうと思うのだが、他方ではまた、これは世界じゅうがどうにかなってしまったのではないかという気が、どうしても頭にこびりついて離れなかった。たかがドタバタ喜劇くらいでこんな騒ぎになるというのは、なにかそもそも名声というものにイカモノ的要素があるということではないのか?わたしはたえず大衆の好意というものを求めつづけてきた。それが獲られたのだ‥だが、皮肉なことに、その瞬間にわたしは、孤独のただ中に淋しく置き去りにされていたのだった。

・ある種の科学者が言うように、われわれの存在がただ無意味な偶然にすぎないとは、わたしにはどうしても信じられない。生と死、あまりにもそれは退っ引きならぬ確たる事実であり、ただの偶然などであるはずがない。…三次元的精神の理解を超えた、厳たるある意志の存在することを証明しているのではあるまいか。

・年をとるにつれて、私は信ということにますます心を惹かれるようになった。現にわたしたちは、考える以上に信によって生きており、また自分でも知らないが、信によっていろんなことをやっているのだ。わたしはむしろ信こそは、あらゆる思想の前提だと信じている。信念なしに仮説や理論、化学や数学の発展はありえなかったはずだ。信とは精神の延長であり、不可能を否定する鍵だとさえ信じている。信の否定はおのれの否定、そして一切の創造力を生みだす精神の否定でしかない。私の信は一切未知のもの、理性で理解できないものを信ずることにある。私たちの理解を超えるものも、ほかの次元世界ではいとも簡単な事実であり、そして未知の領域にこそ幸福への無限の力がある、というのが私の信念である。

・わたしには、人生の設計もなければ哲学もない。‥賢者だろうと愚者だろうと、人間みんな苦しんで生きるよりほかないのだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 喜劇王チャップリンに対するステレオタイプなイメージがいかにあてにならないかということを再認識させられる。…様々な分野の有名人著名人、我々は一体彼らの何を見て何を知っているのだろう。。。

 チャップリンの記憶力には驚嘆せざるを得ない。物心つくかつかないかという子供時代からの鮮明な記憶をたどって語られるその人生は、決して平坦ではない。それどころか、尋常ではない生い立ちとその家庭環境である。チャップリンは巨大な波を追い続け何度も失敗を重ねた挙句、やがて大波に乗ったサーファーのようである。いわゆるアメリカンドリームを体現した数少ない一握りの人物だが、彼の人生の魅力は喜劇王として名を馳せるまでのその過程の中に凝縮されているように思う。成功してから後は自伝というよりもむしろ政治家・実業家・芸術家・作家や詩人等 名だたる著名人との交友録を綴っただけの日記のようになってしまい、残念ながらその魅力が半減してしまったように思う。チャップリンに限らずいわゆる著名人の自伝や伝記を読んでつくづく思うことは、その魅力がその結果ではなくその過程にあるということだ。そこに至るまでの波乱万丈ともいえる人生においてイキイキと生命が躍動しているのは、例外なく本人が試行錯誤しながら一生懸命 体当たりで前へつき進んでいる時期と重なる。生きるということについて深く考えさせられる一冊だ。

 大波はやがて崩れて引く潮のように、彼は成功の代償として悪魔的なマスコミに翻弄され続ける。そして一度は永住を決意した米国を離れることを余儀なくされ、終の棲家をスイス・レマン湖沿いのヴェヴェイ郊外の村に見つける。そして晩年はそこで家族と共に静かで平穏な余生を過ごしたのだ。大半の人々は皆あれこれと言い訳を繕いながら結局は何もしない・できない、それでいて贅沢な余生を求めてやまない。その一方でやるべきことをただひたすら「やる」人間もいる、チャッピリンは紛れもjなく「やる」人物だった。

     <スイス最大の湖>

 チャップリンは自伝の最後を次のような言葉で締めくくっている。

「…わたしはときどき夕暮れのテラスに坐り、広々とした緑の芝生ごしに、はるかな湖や、湖の向うの悠然とした山々を眺めていることがある。そんなとき、わたしはなんにも考えていない。ただ前のこの壮大な静けさを、ひたすら、じっと楽しんでいるのである」

鏡のごとく周囲の風景を映し出す湖面のように、心静かに寛いだ様子のチャップリンが目に浮かぶ。その一方でレマン湖畔に佇むチャップリン銅像は、なぜかどことなく悲哀を帯びて 物悲しくも見える。

 実はレマン湖畔に佇む著名人は、チャップリンだけではない。クイーンのメンバーで近年の映画『ボヘミアン ラプソディ』で再び脚光を浴びたフレディ・マーキュリーもそうだ。エイズが原因で45才という若さでこの世を去った彼は、生前モントルーで度々レコーディングを行い、最後のレコーディングもモントルーのスタジオで行われた。片手を振り上げた彼は、チャップリン同様 レマン湖畔とその背後にそびえるアルプスの山々を眺めている。また女優のオードリー・へプバーンもレマン湖にほど近い田舎町で晩年を過ごし、お墓もその田舎町にある。

 近代建築の巨匠ル・コルビジェは、かつて両親の家を建てるに適した土地を探していた。先に家の設計を済ませ、その後その家に見合った土地を探した。幾つかの条件があり、まず太陽が南にあること、更に山並を背景に湖が南に広がっていること、湖とそこに映えるアルプスの山々も見渡せること、だった。彼はポケットに家の図面を入れて長い間 敷地を探し歩いたそうである。こうした条件をみたす土地はそうそうに見つかるものではなく、最終的にこれらの条件を満たした土地が、ヴェヴェイ近郊のレマン湖畔だった。レマン湖のスイス領側は南斜面の陽当り良好な土地だ。一方 北側対岸はフランス領ミネラルウォーターで有名なエヴィアンの町もあるが、北斜面で陽当りが良くない。スイス側から冬の空気が澄みきった日には、アルプスの最高峰モンブランの頂きだけが白くぽっかりと浮かんで見えることもある。とにかく眺めの良い土地だ。今でもレマン湖畔に残るその小さな家は、現在 彼の他の建築と共に世界遺産に登録、一般公開されている。そう、スイスアルプスだけがスイスではない。

 

ケニア「キリマンジャロの雪」ヘミングウェイ

そこには視界のすべてを覆って、世界と同じほど広く、高く、巨大で、陽光を集めて無窮の白さを放つものがあった。

キリマンジャロの頂きだった。

その時かれは自分が向かっているのがそこであることを知った。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 代表作「老人と海」の数分の一程度のページ数ながら、夢かうつつかそのその淀みのない筆致により強い印象をもたらす名作。…詳細を書くと即ネタばれとなるほどに短い 超短編なので、とにかく読んでみてとしか書けません、以上。

  <ケニアと究極の娯楽サファリ>

 アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロは 富士山より2,000m以上高い5,895m、一見してそこまで高く感じないのはふもとが既に1,000mを超す標高のせいもある。この山はケニアとの国境に近いタンザニア北西部にあるが、ケニア・アンボセリ国立公園付近から見る景色が最も美しいと言われており、実際その通りだと思う。初めて見た時のことを今でもよく覚えている。訪れる第一の目的はもちろんサファリ、つまり野生動物を見ることだが、地平線から上る、もしくは沈む巨大な太陽と アフリカの雄大な景色というおまけがもれなく付いてくる。

「その荒野はとてつもなく広かった。知識としての面積のことではない。実感として広かった。ケニアの話である」

  西江雅之著「東京のラクダ」

  言語学者で旅の達人でもあった西江雅之氏曰く、サファリとはもとはアラビア語の“旅”を意味する語からきたスワヒリ語の単語だそうだ。しかしスワヒリ語の意味するところは、ちょっとそこまでという程度から、何カ月も家を留守にする長旅まで、幅広い、とにかく”どこかに行って来る”という意味だそうだ。これが英語になると、観光客が行う狩猟を意味し、近年では銃によるサファリからカメラサファリに変化し、日本ではサファリといえばこのカメラサファリを指すのが一般的だ。

 初めてサファリを体験した時、仕事を忘れ心の底から楽しんでいる自分がいた。そしてその思いは2度目も変わることはなかった。動物を見て何がそんなに面白いのか、動物園に行っても同じだろう、そう思う人も決して少なくはないだろう。しかし、行けばきっとわかるはず、その考えが全く誤っていたということを。かつての自分もそうだった。動物園の動物たちはもはや野生を失った家畜、ペットである。野生動物の屹立した生命力には、現代人の失いかけた生きる力を呼び起こす作用があるように思えてならない。そうでなければ野生動物を見てあそこまで興奮し夢中になる理由が見つからない。とりわけ狩りに向かう途中のライオンやチーターやヒョウ達のしなやかで凛とした佇まいはいつまでもいつまでも見ていられる。日本からケニア迄ははるか遠く旅行中もハワイのような快適さからは無縁だが、それらデメリットを差し引いたをところで依然としてサファリは究極の娯楽だ。

「人間が、ともすれば動物礼賛になるのは、動物を通して人間の中にある高貴なる野蛮性を見るからです。しかし、それは人間精神の中にある『生き切る』部分がそうさせているのです。…動物の行動を見てそこに燃焼や躍動を感ずるのは、我々が人間だからです。…人間が人間の生の躍動を投影しているだけです」

  執行草舟著「生命の理念Ⅰ」

 

「アフリカの奥地での楽しみの一つは、夜、戸外に出て、空を見上げることだ。そのとたん、幾千もの星々のまぶしいばかりの輝きに目を奪われ、畏敬の念に打たれる。こうした村に暮らすアフリカ人には、さぞかし宇宙は身近なものに感じられるに違いない」

ジョーゼフ・B・マコーミック著「レベル4」

当地は雨季と乾季に分かれる。当然 雨季は雨雲で星空は見えにくいので念のため。

 

「…ナイロビから北西に向かってケニア高地に入り、アフリカの空に頭突きを食らわせている緑の丘陵をのぼってゆく。しばらく小農場やシーダーの森の間を進んだその道は、やがて上り坂の頂点に達して宙に飛びだしたかと見る間に、黄色い靄のたちこめる盆地に下降してゆく。その盆地がアフリカ地溝帯だ」

リチャード・プレストン著「ホット・ゾーン」

ケニアには地球の割れ目である大地溝帯グレート・リフト・ヴァレーの一部が国土を横切っている。レバノンからケニアを通りモザンビーク迄地球の円周の約1/6という半端ない距離だ。地球の地殻変動の時代の痕跡である。本格的な調査を初めて行った英国人の博物学者が生前「いつの日か、この谷間は月の世界から見えるだろう」と言い残し、その後アポロ17号によってそれが証明された。実際に目の前で見たところで規模が大き過ぎて余りピンとこない。そういう意味では米国のグランドキャニオンと似ている。空から鳥瞰した方がわかりやすいスケールの大きなスポットだ。

 玄関口は首都ナイロビ、ケニアウガンダ鉄道の建設の為の荷物集積所に端を発した町である。標高1,700mでほぼ赤道直下、肌寒くそして暑い、空港からそのまま4WDのサファリカーに乗り込んで、排気ガスと土埃にまみれながら国立公園への長いドライブが始まる。…ケニア・キクユ族の話「あなたはいつまでたっても休ませてくれない友人と旅を続けている。その友人とは?」…その答えは「道」だ。

 

 

 

ウィーン「第三の男」グレアム・グリーン

・悪というものはピーター・パンのようなものだー永遠の青春という、身の毛のよだつような、いやな天性を備えているのだ。

・素人はプロにまさるもう一つの利点がある。素人は無鉄砲なことができる。

人間性というものは奇妙なもので、心とはまったく無関係に、ゆがんだ言いわけを考えつくものだ。

・世界の終末とか、飛行機の墜落を目撃している時には、おしゃべりなどはしないだろう。

・彼は激しい行動をしてみたいような気分だっだ。そうして、雪のつもった街路が湖のようにうねって、彼の心を悲しみと、永遠の愛と、断念に通じる新しい道に向けるのだった。

・しかし考えてみれば、われわれはみんな哀れである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 有名な映画「第三の男」の原作、最初から映画化前提で執筆された作品である。舞台はオーストリアの首都ウィーン。戦争で被害を被ったウィーンの当時の状況が、小説の序文に次のように解説されている。

「1948年、ウィーンはアメリカ、ソ連、フランス、イギリスが統治する区域に分割されていて、中心部はその四大国が一ヶ月交代で治安し、その四ヶ国から集められた四人の兵士によって、昼夜ともパトロールされた」

つまり現在の音楽・芸術の都ウィーンのイメージには程遠い、戦禍生々しい時分の冬のウィーンが舞台である。それもそのはず地図を広げてみると一目瞭然だが、オーストリアはかつての東欧諸国に(現在 中欧と呼ばれているチェコ・スロバキアハンガリー等)まるで でべそのように入り込んでいる。第一次大戦での敗戦によりハプスブルグ帝国は崩壊、領土を失い、首都のウィーンは不自然に国土の東端に位置している。地理的な条件も相まって、社会主義圏の空気を取り込みやすい立地にあった。初めてウィーンを訪れた30年近く前はまだその当時のようなどこか抜き差しならない雰囲気が残っていたように記憶する。小説を読むと初めてウィーンを訪れた時の印象とみごとに合致する、やはり厳寒の冬だった。今では明るく健全な観光都市のイメージですっかり上書きされてしまったが、ミステリアスなウィーンも魅力的だったので 正直なところ少し残念な気持ちもなくはない。

 いずれにしろウィーンの政府観光局が大喜びしてしまうような内容の本であることは間違いない。ザッハーホテル、グランドホテル、アストリアホテル、ケルントナー通り、カフェ・モーツァルト、聖シュテファン大寺院、プラター遊園地の観覧車、中央墓地、ドナウ河など、ガイドブックに登場するスポット目白押し、漏れているのはオペラ座と王宮位なものだろうか。

 原作と映画では人物の設定やエンディングに微妙な違いがみられる。映画の最後の中央墓地の場面が深い余韻の残る忘れ難い映像であること、映画を観た人にとっては今更 言うまでもないことだろう。

 <プライベートでも行きたい街は?>

 時々考える。仕事ではなくプライベートでヨーロッパに行くならどこがいいか…と。仕事ではいつも宿泊地を転々と移動するのが一般的だ。プライベートで行くならそれは避けてゆっくりしたい。すると連泊しても飽きない街に自ずと候補は絞られる。なんだかんだ言ってもやっぱりパリなのだ、華の都パリと言われるだけのことはある。しかし残念ながら近年のパリは治安の悪化が懸念材料で、貴重品を気にかけながらあちこち歩き回るのは意外とストレスがたまる。

 そこで次の候補に浮上してくるのが、小パリ・ウィーンである。パリより小ぶりなウィーンの中心部は徒歩で移動可能(パリはJR山の手線の中に収まる程度、ウィーンは更に狭くて世田谷区程度の面積しかない)その上 地下鉄やトラムの交通機関も充実、かつパリに比べると治安も格段に良い。

 また連泊の場合、意外と侮れないのがホテルの朝食である。フランスはコンチネンタル・ブレックファーストが基本なので品数が少なく、温かい料理や野菜が殆どない場合も珍しくない。むろんホテルの星の数次第ではあるが、同じ星の数であればオーストリアの方が朝食は断然良い。

 更に日本同様に飲食店で無料の水が飲めるヨーロッパでは希少な街であり、これは日本人にとってかなり重要なポイントだ。ウィーンの水道水はアルプス寄りの山あいから長い導水路で水を引いている為、ヨーロッパの都市の中でも有数の水質を誇る。カフェに入って注文したコ―ヒー共にコップ1杯の水がサービスされるというヨーロッパで唯一の国と言ってもよい。パリ同様カフェ文化の発達した街だから、スタバ等チェーンのコ―ヒ―ショップの台頭で除々にその数を減らしているとは言え、今でも趣のある老舗カフェが数多く存在している。カフェではコ―ヒ―と共にもれなくケーキ類が楽しめる。有名なザッハートルテは今ではケーキの一般名称となっており、ホテルザッハーへ行かずとも食べられる(この有名な濃厚チョコレートケーキの元祖を巡り、カフェデメルとホテルザッハーが裁判で争い、その結果ホテルザッハーが勝った為 現在 ザッハートルテの元祖を名乗っているのはホテルザッハーである)日本へ持ち帰り可能な位 賞味期限の長いケーキである理由は、砂糖がタップリ使われているからである。歯に染みる程に甘い、何しろオーストリアで最も甘いケーキがザッハートルテなのだ。現地では砂糖抜きの生クリームを添えて食べる為 その甘さが幾分緩和されて食べやすくはある。しかし正直なところ、ウィーンにはザッハートルテ以外にも美味しいケーキが山ほどあり、その中には日本人好みの甘さ控えめのケーキもあることを忘れないでほしい。

 ところでウィンナーコーヒーという名称のコーヒーは、実はウィーンに存在しない(これは…スイスで日本のスイスロールと同じものを見た事ないのと同じ、ロシア人が日本で言うところのロシアンティー、つまり紅茶にジャムを入れて飲まないのと同じ、イタリアにスパゲティ・ナポリタンが存在しないのと同じだ)従って現地でウィンナーコーヒーと言っても通じない。日本のウィンナーコ―ヒーに該当するコーヒーを飲みたければ『一頭立ての馬車』という意味のアインシュぺナーというコーヒーを注文しよう。

 コーヒーよりお酒が好きという方には、ホイリゲというワイン酒屋はじめ、ドイツ語圏だからビアホールもある。

 名物のウィーン風カツレツ・ウィーンナーシュニッツェルに、初夏なら白アスパラ、黄色いヒラタケに似たキノコ、秋にはマロンのケーキetc… また食べ物の話で終わってしまった…

 

 

京都・横浜「昭和・平成精神史」磯前順一

 「大きな瞳が虚無を映し出す」とよく言われていた沢田さんに注目したのは、ただシラケていただけではなかったからです。シラケを超えていく情熱を、歌やお芝居を信じることで、シラケているものを一生懸命生きて越えていくというメッセージを、表現行為に向かう姿勢から自然と発していたからだと思います。シラケ世代の虚無感とひたむきさは一見相容れないように見えますが、それがひとりの人間のなかに共存しているところが沢田さんの特徴でした。

 その沢田さんが参加したPYGというバンドの曲に「花・太陽・雨」というものがあります。…リーダーの井上堯之さんが「これはアルベール・カミュの『異邦人』をモチーフ作ったんだ」というコメントしたのを知りました。それは、色のない世界に花が咲く、なにもない世界に太陽が輝く、乾いた土地に雨が降る、そういう意味のない世界に意味をもたらしてくれるのがあなたの愛だという歌でした。

 そのもとになったアイデアは井上さんが若い頃から持っていたそうです。彼は伝記のなかでずっと自分が生きることがむなしくて、苦しくて、人気者になってもむなしかった。その苦しみを音楽という表現をとおしてぶつけてみようということで作ったと述べています。そのときに沢田さんに出会って、沢田というのは一生懸命とにかくやる。なんでも一生懸命やる。それは、エンターテイメントでも芸能界でもコントでもやる。歌もやる。どんな些細なことでも、欲しないことでも、自分が引き受けたことには積極的な意味を見つけようとしている沢田にこの歌を歌わせたいと、井上さんは感心していたそうです。

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 井上氏は「楽しむのは自分じゃないというショーマンの立場に立って、完成されたステージをくり広げる沢田に、頭の良さをしみじみ感じた」というコメントを残している。

 一方ジュリー自身はインタビューで「与えてくれたことを一生懸命やるというのが性に合ってるみたい…仕事だから頑張るのがあたりまえ」と答えている。

「僕はどんなTV番組であっても決してイヤな顔をしないで出てるつもりだ。歌手によっては、こんな番組なんて~と露骨に顔に出している人もいるそうだけど、そうだったら始めから出なければいい。出る以上は精いっぱい楽しくやるべきだ」 

「人の気で力以上のことができるんです。レコード大賞は決して頂点ではない。それは通過点にしか過ぎないんです。…ひとりの力だけではできないということ。…本当にすごいことができるのは、人の気が先ですよ。そのきっかけをつくるのはぼくですよね。…エネルギーをもらわないとできない。…この先頑張れなきゃ、何もならない」

 

 自分が決めたことを決めたように生きていると不器用に見えるのかもしれませんが、それがジュリーなのですね。

  國府田公子著「沢田研二大研究」

「ずっと頭を占めていることは、どうしたらもっともっと良い歌手に…音楽家になれるか?ということです。ぼくが、歌の中でいちばん大切にしたいのは『心』です。…自分の悩みなんか、だれにうちあけてみてもしかたがないと思えてくるんです。けっきょく自分だけでしか解決できないことなんですからねぇ」

  磯前純一著「ザ・タイガース~世界はボクらを待っていた」

「女の子にもてるために格好つけようぜ!」を合言葉に活動を始めたバンドがほとんどだったが、沢田は最初から方向性が違った。不純な思いはつゆほども持ち合わせていない。音楽に真っすぐ」

  岸部一徳著「我が道」

「 当時は、さぞかしいい思いをしただろう、と羨ましがられる。行く先々で、女の子に囲まれていたから。でも、ファンの子に手を付けたりはしなかった。そういうことを絶対にしなかったのが、ぼくと沢田研二

  萩原健一著「ショーケン

「上から何かを授かっているということでいえば…ジュリーはスケールが違う。

 ふだんは地味な人なのよ。…空港のロビーにいても、そうとは気づかれない。…キャンバスにたとえるなら、いつでも真っ白な状態なんだ。だからこそ何が来てもすぐ化けられる。柔軟性があるんだ。…そういう真っ白な部分を持ってないかぎり、いわゆるスターと呼ばれる存在にはなれないんだと思う。

 沢田さん本人は、音楽的にあれこれ注文をつけてくるタイプではないんですよ。リハの時でも、ほとんど何も言わない。…本番直前も寡黙だしね」

  村上ポンタ秀一著「自暴自伝」

 

 思えばあの頃、時代の空気が大きく変化し、ある種の居心地の悪さ、違和感を感じていたかつての自分を覚えている。軽薄さや明るさ、楽しいことだけをよしとする風潮は、当時マスメディアにのって瞬く間に日本中を席巻したように思う。そしてそれは「ネクラ」という言葉でその流れに乗らない人間を貶め、努力や一生懸命に何かをやることはカッコ悪いという認識に上書きされた。そしてその頃を境に沢田研二の姿をTVで見かけなくなっていった。しかし、それから30年以上の年月が流れ、75才になる孤高の歌手は半世紀を超え今尚歌い続けている。その気力や持続力は一体どこから生まれて来るのだろう。

 『存在自体が芸能史の大事件』という凄いタイトルがつけられた新聞記事に、著者 磯前順一氏の次のようなコメントが掲載されていた。「どんなに周りからもてはやされても自分に酔わず、努力を続け、人を引きつける。このオーラと天賦の才はイタコや宗教者のそれに通じるものがある。68年の時代の精神をジュリーこそが受け継ぎ、諦めず、孤独も恐れずに、表現し続けている」もうこれ以上はないだろうと言うほどの賛辞、べた褒めだ。

 一方のジュリー自身はかつて26才とは思えないほど客観的に自らを語っていた。「本当は地味で慎重すぎるくらいの性格、人気者になっても決して浮ついてはいなかった、自分自身の欠点もよく知っているし、凄く冷静だ」と。

 更に「我が名は、ジュリー」という自伝のインタビューで彼は、運に恵まれ、成行きで現在の自分があるとも答えている。成行きの結果がこれなら、スーパースターの星の元に生まれついたとしか言いようがないではないか。「宿命」というものについて興味深い考察を紹介したい。

「『普通の生き方』は、自分の生きるべき場所で生きるということです。…自分に与えられた生き方をすることなのです。そして、与えられているものは全員違います。…普通に生きた結果、会社の社長になる人もいれば、普通に生きているうちにスターになる人もいます。…スターになる宿命をもって生まれてきた人が、普通に生きればスターになるのです。宿命として与えられているものは、人それぞれ違うので、どうなるかはわかりません。ただ、スターになる宿命に生まれていない人は、どれだけ憧れても、どれだけ努力しても、絶対にスターにはなれないのです。なろうとするほどに人生が歪む。…逆に、スターになる宿命をもって生まれてきた人が、平凡な生き方がしたいと思って引退しても、不幸になるだけなのです。自分に与えられた道を進むのが普通の生き方であり、それぞれ個人個人の幸福もその中にしかないのです。…そして、人間の生命は、絶えざる自己の超克をその本質としていることを忘れてはいけません。だから、普通とは、無限の生命の燃焼に身を預ける生き方でもあるわけです」

  執行草舟著「生命の理念Ⅰ」

「人間の価値は、その人間の燃焼によって決まる」 同上「現代の考察」

 生命の燃焼に身を預ける。…かつて自身の子供のことについて聞かれた28才のジュリーは次のように答えている。「…子どものために何かを残してやるつもりもない…。ぼくはぼくの代だけで燃えつくせればいいと思っているんです」と。この答えを聞いた記者はそれを自己中心的と受けとめたようだったが、その13年後 彼は妻と一人息子に莫大な財産を残し、身体一つで家を出たと言われている。かつて西郷隆盛は「児孫の為に美田を買わず」と言い、暗にその物質至上主義を戒めた。我々現代人は『魂の燃焼、生命の燃焼』について、今一度立ち止まり、考え直す余地があるのではないか。残された時間は多くはない。

      <京都と横浜>

 歌番組やトーク番組、あるいはインタビューでの問いかけの度に彼の口から漏れるのは「…そうですねぇ…」といういかにも京都らしいゆったりとした口調、真摯で気どりのない言葉。派手なイメージと実際の彼の語り口のギャップは余りに大きく、それが更なる魅力となって、ますます心を鷲掴みにされた女性ファンが当時どれだけいたことだろう。

 ジュリーの最初の記憶は故郷の京都、当時 左京区東田町の辺りは草むらで家の前も畑だったそうだ。コロナ騒ぎもやっと収束したことだし…そうだ、京都に行こう!

 …現在のジュリーは神奈川県民ホールのコンサートで自ら地元と公言するように横浜市民・山手在住だ。その県民ホールは残念なことに老朽化が理由で閉館が決まったが、修復・改装した上で再開を待ち望む。

 横浜でも再び外国人旅行者の姿をそこかしこで見かけるようになった。しかしそんなことなどどこ吹く風、横浜の空の下ごく普通の日常生活を送っているであろう、かつては若い女性の憧れ、今では団塊世代の希望の星ジュリーには少しでも長く現役で活躍してもらいたいと切に願う、同時に磯前氏には続編・令和の精神史の執筆を期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

中国 「太陽の帝国」 J.G.バラード

・ジムを一番不安にさせていたのは、日本軍の怒りではなく、その辛抱強さだった。

・…日本兵たちが崇敬の的であることに変わりはなかった。日本人の勇敢さとストイシズムがジムは好きだった。ジム自身は悲しさなど一度も感じたことはないのに、日本人の悲しさは不思議にジムの心に響いた。中国人 ~彼らのことならよく知っている~ は冷酷で、しばしば残酷なことも平然とやってのけるが、彼らは独自の優れた形で常に集団として行動している。一方の日本人は誰もがひとりで、その全員が、どれもまったく同じにしか見えない家族写真を…持ち歩いている。

・上海を掌握し、真珠湾アメリカ艦隊を海底に沈めた日本軍。…太平洋上の航空母艦の甲板に思いを馳せた。…だぶだぶの飛行服に身を包み、武装していない飛行機の横に立つ小柄な男たち…自分自身の意思とわずかな運にすべてを賭ける覚悟のできた飛行士たちに。

・面倒を見るべき誰かがいるということは、自分が誰かに面倒を見られることと同じなのだ。

・戦争は長く続きすぎた。…生き延びるためにできる限りのことをやってきたジムだったが、今、彼の一部は死にたいと思っていた。死ぬことは、自分で戦争を終わらせることのできるひとつの方法だった。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 第二次世界大戦末期の1941~1945年、激動かつ混乱の渦中の上海を生き抜いた著者の戦争体験に基づいた自伝的小説。

 真珠湾攻撃からわずか数時間で、上海を包囲していた日本陸軍は上海を制圧、混乱の最中 当時まだ11才だった作者・主人公のジムは両親と生き別れの憂き目にあう。しかし様々な困難をくぐり抜けた英国人少年の生き抜く力は拍手喝采もの。衣食住に満ち足りた現代人に欠けているもの、つまり少年の持つ「躍動する生命エネルギー」が本来の人間のあるべき姿を我々に思い出させ、軽い羨望すら覚えるのだ。困難を次々と乗り越え前へつき進む姿は、少年時代のチャップリンを彷彿とさせる。

 同時に英国・米国・中国・日本各国の国民性を先入観に左右されることなく正面から捉えた鋭い観察眼に驚かされる。少年が日本軍に好意を抱いてくれているのは、日本人としてやはり嬉しいものだ。

 <1989年の中国とワンタンの思い出>

 30年以上も昔、天安門事件直前の1989年のゴールデンウィークに中国を訪れた。北京では既に大きなデモがあちこちで勃発しており、観光バスも人・人・人の波に危うく呑み込まれそうな勢いだった。終りの見えない人の波、人々の放つエネルギーの大きなうねりに尋常ならざるものを感じ、微かな恐怖すら覚えた。帰国後一ヶ月もしない内にあの天安門事件が勃発、TVの映像を見て驚愕したことを今でもはっきり覚えている。

 その後の30年余りの中国の変わり方は凄まじく、それはとても同じ国とは思えないほどである。…空港で荷物が一つ出てこないのでターンテーブルのカーテンをめくってみると、屋外に取り残されたスーツケースがポツンと1個放置されていた。1989年当時はまだ北京空港から市内に向かう道には街灯も殆どなく、とても暗かった記憶がある。また飲食店には冷蔵庫も十分ではなく、お決まりのように冷えてない常温のビールが混じっていたものだ。地方空港から上海へ国内線の飛行機で移動した際は、大幅に遅延した。パイロットがまだ着いてないという理由だった(と記憶している)、やっと来たと思ったらのんびりお弁当を食べ始める。頼みの綱の現地ガイドは遅延の表示を「あれは誤り」と云い放ち、当の昔にその場を立ち去っていた。取り残された我々は途方に暮れるしかなかった。そんなこんなで長時間空港で待たされた挙句の果てに、上海では予定された空港ではない軍事空港らしき別の空港に着陸したのであった。川下りの船では食後の食器を川の水で洗い、それを限りなく雑巾に見えるふきんで拭っていた。

 しかし最も印象に残っているのは、花より団子、桂林で現地ガイドが連れて行ってくれたワンタン専門店である。メニューはワンタンのみ、だがそれが美味し過ぎた。しかもそのどんぶりのワンタンは、その当時 日本円で10円もしなかったと記憶する。たかがワンタン、されどワンタン、世界三大料理の一つである中華料理の奥は、底なし沼のように深かった。

 

フィンランド「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹

・道路の両側はおおむね森だった。国土全体が瑞々しく豊かな緑色で覆われているような印象があった。…大きな翼を持った鳥が、地上の獲物を探しながら風に乗ってゆっくりと空を漂っていた。

・湖はまるで運河のように、うねりながら細長くどこまでも続いていた。おそらく何万年か前に、移動する氷河によって深く削られたのだろう。

フィンランドの湖の畔で聴くその音楽の響きには、東京のマンションの一室で耳にするそれとはいくぶん異なった趣があった。

・シャワーを浴びて服を着替えたときにはもう夕方になっていた。しかし窓の外は真昼のように明るかった。

「…フィンランドの夏だよ。ここはほとんど夜中までぴかぴかに明るいよ」

北欧の夜の独特の明るさは、彼の心に不思議な震えをもたらした。身体は眠りを求めているのだが、頭は今しばらくの覚醒を求めている。

・意識の最後尾の明かりが、遠ざかっていく最終の特急列車のように、徐々にスピードを増しながら小さくなり、夜の奥に吸い込まれて消えた。あとには白樺の木立を抜ける風の音だけが残った。

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 この小説の主な舞台は東京だが、名古屋と、そしてフィンランドの首都ヘルシンキと郊外のハメーンリンナが少しずつ登場する。全体を通してフィンランドの森の奥にひっそりと鎮座する湖のほとりで読んでいるような、しんとした静けさを一貫して感ずる小説だ。著者の文体には思いのほかフィンランドがしっくりと馴染む気がした。同じ北欧でもバイキングのノルウェースウェーデンではなく、ましてやドイツ、英国、南欧とかでもない。フィンランド人は嫌なことがあるとストレス発散に森に出かけて木に話しかける人が多い、と何かで読んだ記憶がある。村上氏の小説にはこうした行動を自然に受け入れそうな登場人物が多い、と思うのだ。なぜかはわからない。

 実はフィンランドは色々な点において、ほんの少しずつ周辺諸国とは異質な国だ。まず祖先達は新天地を目指しバイキング船で繰り出して行ったあのバイキングではない。バイキングを先祖に持つのは、いわゆるスカンジナビア3国、つまりノルウェースウェーデンデンマークである。フィンランド人の祖先はゲルマン人より我々日本人に近いウラル・アルタイ語族なのだ。ヨーロッパではハンガリーマジャール人とバルト3国の一つエストニア人に近しい人々である。例えば名前も英語のようにファーストネーム、ファミリーネームの順ではなく、日本と同じ氏名、つまり名字が先にくる。フィンランド語でフィンランドスオミ、ありがとうはキートスという。妙にカタカナ読みが馴染む。これらが正体不明の居心地の良さと関連性があるのかはわからない。

 同じフィンランドヘルシンキが舞台の小説、群ようこ著「かもめ食堂」だが、話しの大半がタイトルでもある「かもめ食堂」内で進行し、そして完結するので、舞台はフィンランドでなく コペンハーゲンストックホルム、あるいはエディンバラとかに置き換わっても大差ないんじゃないかとふと思った。あっさりした内容、すぐ読み終わるボリュームは、日本~ヘルシンキ間の機内で読むのに好都合だろう。

    <フィンランドグルメ>

 フィンランドの食事は美味しいという評判こそないけれども、決して美味しい食べ物がないわけではない。フィンランドで是非試して頂きたいものにサーモンスープとシナモンロールがある。そもそも寒い地域は大抵スープが美味しく、当たり外れの少ない無難なメニューなのだ。大きな鮭の切り身とゴロゴロしたじゃが芋が入ったクリーミーなサーモンスープは日本人の口によく合う。ヘルシンキ港の屋内市場や大きなカフェ等、ランチならボリューミーなスープとパンで十分。足りなければ食後にシナモンロールとコ―ヒーの組合せがこれまた絶妙である。米国『シナボン』の甘い甘いシナモンロールとはうって変わり、デニッシュといよりも甘さ控えめシナモン風味のロールパンに近い。この地味さ加減が国民性をそのまま反映しているようでもあり微笑ましい。参考までにフィンランド人は読書とコーヒー好きが多いそうだ。

村上春樹氏も紀行文集の中でフィンランドは食事がなかなか美味しかったと語っている。

「全体的にのんびりした北欧諸国の中でも、とりわけのんびりした国だ。派手なところはあまりないけれど、ゆるやかに静かに時間が流れているという印象がある。人々も親切で、あたりが柔らかだ。食事もなかなかおいしい。良いところですよ。一度行けば、あなたもフィンランド贔屓になるかもしれない。うまくいけば森でばったりスナフキンに遭えるかもしれないし…というのはもちろん嘘だけど」

そう言えば昔の歌謡曲にこんな歌詞の歌があった。

「森と泉に囲まれて 静かに眠る…」フィンランドのことですか?