至福の読書・魅惑の世界旅行

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バチカン市国「クオ・ヴァディス」シェンケヴィッチ

ペテロ:「クオ ヴァディス ドミネ‥(主よ、どこへ行かれるのですか?」

キリスト:「おまえがわたしの民を捨てるなら、わたしはローマへ行ってもう一度十字架にかかろう」

‥ペテロはやがて起き上がって、ふるえる手で巡礼の杖を取りあげ、ひとことも言わずに七つの丘の都(ローマ)の方へ向き直った。‥そして引き返した。

‥こうしてネロは、旋風が、あらしが、火事が、戦争が、あるいは疫病が去るようにして去った。しかしペテロのバジリカはいまなおワティカヌスの丘の高みから都と全世界を支配している。

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「ペテロは汝の、赦しではち切れんばかりの目を見て、自分の罪に泣きぬれたのだ」

  ミゲール・デ・ウナムーノ著「ベラスケスのキリスト」

 

「もっと大きい、もっと大事な幸福がある。

 ‥古代ローマ帝国と、その迫害を受ける原始キリスト教社会を描いた文学は、私に魂についての深い考察を強いたのだ」

  執行草舟著「人生のロゴス」

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 涙が溢れてとまらなかった。映画を見て涙することはさほど珍しくもないが、本を読んで…とは、思い出す限りでは「アルジャーノンに花束を」あるいは「怒りの葡萄」くらいしか思い出せず…いずれにしろずっと前だ。むろんこうしたブログを開設している位だから本が好きで、これまでかなりの数の本を読んできた。面白い本は山ほどあったけれども、心が震える・震撼させるほどの本に巡り合うことは決して多くない、いや滅多にない。

 作者のシェンケヴィッチはポーランド人初のノーベル文学賞を受賞、キューリー夫人だけがノーベル賞受賞のポーランド人ではない。因みに第264代ローマ教皇の故ヨハネ・パウロⅡもポーランド人だ。…氏の葬儀の直前イタリアに居合わせたが、もの凄い数のポーランド国籍の車がローマに集結しているのを目の当たりにした。そして現在 彼は故郷ポーランドではなく、ローマに舞い戻ったペテロ同様バチカンの地に眠る。因みにヨーロッパ各国の中で現在 最も宗教心が厚い国民という印象を受けたのがポーランドだ。

 本のタイトルは文中のペテロとキリストのラテン語の会話から抜かれたもの。時代は皇帝ネロの時代後半、つまりキリストがゴルゴダの丘で十字架に架けられた後の話であり、ペテロはキリストの幻か霊か何かと対面し、会話を交わし、結果 殉教免れないローマへと引き返す。史実と創作の入り混じる歴史小説のクライマックスでもある。

 主人公はペテロではなく、架空の古代ローマの軍人で、そのうら若き主人公は一目ぼれしたキリスト教徒の女性の影響を受け 3歩進んで2歩下がりながらも、除々にキリスト教に惹かれてゆく。始めてペテロの説教を聞いた時の心の動揺がその後の変化を予見させる。

「‥敵を許せとか、敵の悪に報いるに善をもってし、彼らを愛せよとか、そのように命ずる教えは、彼には気違いじみたものとしか思えなかったが、しかし同時に彼は、この気違いじみたところに、まさしくこれまでのあらゆる哲学にまさる或る力強さが含まれているのだと感じた。この教えは気違いじみているから実行できないが、しかし実行できないからこそ神聖なのだ、とも思った。‥この教えには現実的なところが少しもない、しかし現実はこの教えにくらべればいまにもみじめで、考えてみるだけの価値もない‥かつて思いも及ばなかったような無限なもの、巨大なものが、雲のように彼の心をつつんだ」

「自分がもし、虚偽ではなく真理が、憎しみではなく愛が、罪ではなく善が、不信仰ではなく信仰がこの世を支配することを望まないとしたら、そもそも自分は何者だろうか‥」

「彼は心の中に、いままで感じたことのないある不思議な力を感じて、信仰は山をも動かすということの意味を理解しはじめていた」

 こうしてローマの軍人はついに洗礼を受けるに至る。キリスト教の感化力、そして広まっていくさまが、まるでその場にいたかのようにつぶさに描かれ、ノーベル賞作家の面目躍如たるものがある。作品の中に終始 原始キリスト教の力強い初心が貫かれている。

「…キリスト教が偉大であったのは、イエスが死んでから、その教えをローマ帝国が国教と定めるまでの350年間、死に至る迫害を受けながらも存続してきた点にある。350年間、名もない殉教者を積み上げ続けたのである」

  執行草舟著「『憧れ』の思想」

「初期の信徒たちの生命を何千となく奪い、彼らを墓のかなたへ連れ去った信仰の巨大な流れ」によって、

「彼らの思いは地を離れ、魂は永遠を目ざして飛んだ。おのれの内なる力をもって、「野獣」(ネロのこと)の力と残虐に立ち向かうべく、夢みる者のように、歓喜の絶頂にある者のように、彼らは進んでいった」のだ。

主人公の伯父であるペトロニウスは言う。

「きみたちの思い違いだ。彼ら(キリスト教徒)は抵抗しているよ」

「どんな方法で?」「忍耐という方法で」

 興味深い登場人物のひとりにキロンという自称哲学者のギリシャ人がいる。まるで”ゲゲゲの鬼太郎ネズミ男”のように嘘つきで厚かましく節操がない男だ。そんな救いようのない人物が最後の最後になってキリスト教に改宗、殉教する場面は、ある意味ペテロがローマへ引き返す場面を上回るクライマックスだ、少なくとも自分にとっては。ヘルマン・ヘッセデミアンの中の一節に次のような主人公の言葉がある。

「自分自身のなかにないものなんか、わたしたちを興奮させはしないもの」 

恐らくこれが答えだ。キロンのもつ悪徳を自分も同じように持っているが故、彼が心を入れかえ死にゆくさまに一筋の希望を見たのかもしれない。

「真理のために死すべき時に 人無事なるは、その破滅」 エマーソンの言葉

「危険のないところに信仰はない」 佐々木孝/情熱の哲学 ウナムーノと「生」の闘い

「肉体は滅び、肉体を作る物質は永久のものではない。しかし、魂は不滅であり、けっして死なない」 死海文書より

 それにしても闘技場での殺し合いを娯楽として楽しんだ時代の狂気はいかほどのものか。ネロの時代にして既にまともな人間は、キリスト教徒以外ほぼ残っていないように見える。その正気な人間はその後も迫害され虐殺されてゆく。しかしながらそれは客観的な立場で俯瞰できる今だからこそ見えてくること、その渦中にいた人々にとってそれは全く驚くに値しない。歴史は繰り返す、同じことが現代まで変わることはなく続いているとしたら、はたして後世の人々は、現代社会をどのように見るか。

  <世界最小国家バチカン市国

 イタリアの首都ローマの一角に鎮座する世界最小国家バチカン市国。そこに建立するのがカトリックの総本山、かつ世界最大のキリスト教寺院サン・ピエトロ寺院、ペテロが十字架に架けられ殉教した場所だ。この世界有数の聖地は年がら年中、巡礼者と観光客で溢れかえっている。巡礼のため、世界最小国家に足を踏み入れるがため、世界最大のキリスト教寺院を見るため、併設されたバチカン博物館最大の見どころシスティーナ礼拝堂を見るため、とにかく世界中から溢れんばかりの人がやってくる。とりわけ日本TVがスポンサーになって大がかりな修復を終え、元の色彩を取り戻したシスティーナ礼拝堂フレスコ画は圧巻。むろん壁画はモナリザような絵画と違い海外出張不可、その全容を見たければバチカンまで足を運ぶしかない。壁画を手がけたミケランジェロの燃ゆる魂は、今でも対面する人々の心の隙間に熱く燃える楔を打ちつける。

「涙のなかに生き、炎に焼かれる~」

ミケランジェロの未完のソネットの一節。

 それでは年がら年中大混雑のバチカンを訪れるにあたり、少しでも効率よく見学するためのポイントをいくつか伝授したい。米国のテロ以降 現在迄 どこかしら”入場”するにあたり、ほぼ世界中で手荷物検査が実施されており、もちろんバチカンも例外ではない。検査のための行列はサン・ピエトロ寺院前の広場に沿って長く伸び、博物館も事前予約なしには同様に長蛇の列に並ばざるをえない。団体旅行ではなく個人旅行の場合、いかにしてそれらの長い行列を回避するかが 旅の疲れを軽減し 限られた時間を有効利用する重要な鍵となる。そしてそれは旅行者にとってある意味ペテロの持つ鍵以上に重要なことでもある。

 まず博物館の時間指定の事前予約は必要不可欠。そして博物館最後の見学ルートとなるシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ寺院側の出口へと抜けることにより、手荷物検査の行列を回避するのがポイント。つまりシスティーナ礼拝堂には、博物館の入口へ戻る出口と 寺院側へ抜ける出口、2つの出口がある。寺院側へ抜ければ 寺院入場の長い手荷物検査の行列に並ばなくて済むのだ。従って博物館の予約時間は、寺院の見学に十分な時間の余裕をもって取る必要がある。博物館の入口と寺院の入口は離れており、うっかり博物館の出口へ戻ろうものならバチカンの城壁に沿って暫らく歩き、今度は再度手荷物検査通過のための長い行列に並ばなくてはならない。むろん全てにおいて宗教行事優先のため 法王の謁見など行事の前後は寺院側への出口が閉鎖されることもままある。また夏の間 極端に肌の露出の大きい服装では寺院の入場はできないので注。(昔より緩和されたとはいえ服装をチェックする係員は健在)それからWCは博物館内で行っておこう。イタリア中どこへ行っても、訪れる人の数に対してWCの数は圧倒的に不足しているのだ。