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ラパス・ウユニ塩湖「ゲバラ日記」「革命戦争回顧録」チェ・ゲバラ  

      《 ゲバラ日記 》

1966年12月31日

 われわれの運動こそ南米大陸革命の新たなムリヨ『雄叫び』であり、革命の大義の前にはわれわれの生命など物の数ではないと答えた。フィデルカストロ)からの心のこもったメッセージが届いた。

1967年6月14日

 私は39才になった。ゲリラ戦士として自分の将来を考えなければならない年ごろが、否応なしに近づいている。いまのところは”シャンとして”いる。

1967年8月8日

 いまや、われわれは重大な決断の時機にさしかかっている。こうした闘争はわれわれに人類最高の次元に位する革命家になる機会を与えてくれるものであり、人間として自分自身を試す機会をも与えてくれるからだ。…要するに、われわれはもっと革命家らしくなり、模範的にふるまわなければならない。

     《 革命戦争回顧録

・過激で急進的な社会改革である革命は、そのどれもが特殊な状況下で遂行される。それらはまずほとんど円熟した状態で出現しないし、その詳細のすべてを科学的に予見することもできない。それは社会的改革を求めて闘う人類の熱誠を素地に、その即興的行為をもって成し遂げられる。そしてそれは、決して完全無欠ではない。我々の革命も例外ではなかった。

・…深刻な意見の相違が持ち上がり、時にそれは激論を招く結果になった。…革命の分別が万事に優先して、結束という名の下に譲歩を見た。われわれは盗みを許さなかったし、少しでも裏切る可能性があるように見える者は重要な地位には就けなかった。一方で彼らを粛清することはしなかった。

・革命家の品行は、革命家の信条を映しだす鏡そのものである。革命家を自称する者がそれにふさわしい振る舞いをしなければ、彼はペテン師以外の何物でもない。

・…全員が戦場で自分に華々しい瞬間が舞いおりるのを切望している。それでいてわれわれには誰一人として戦いたいと思っている者などいやしなかった。全員が必要に迫られて戦っていたのだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 日記、回顧録ともに1つの文学として読むことができる。ゲリラ軍の医者としての役目も果たしながら、その合間をぬって書きとめられたメモを元にした回顧録には、キューバ革命のさなか 持病の喘息に悩まされながらの その苛酷な日々と正直な気持ちが吐露されている。

「…行軍は私にとって苦行であった。…闘争に求められる身体的条件はきわめて厳しかったが、精神的条件はそれ以上で、われわれは常に包囲攻撃の的にされているような気持ちで日々過ごしていた。…喘息の発作がひどくて一歩進むのがやっとのありさまであった」

「多くあり過ぎて語り尽くせないほどの試練と辛苦を潜り抜けた後に」

 彼らはついに勝利を勝ち取る。そして彼は断固たる決意を述べる。

「今のわれわれは名誉を挽回できない南アメリカ諸国の希望の星である。…キューバ国民は、われわれの領土の完全なる自由を手にするための闘争を開始する。…革命の血の最後の一滴がしたたり落ちるまで戦う所存である」と。

 キューバ革命達成ののちも、アフリカ・コンゴ、更にボリビアへとチェの革命の旅は続く。ゲバラ日記はボリビア闘争中に書きとめられたもので、10月7日で途切れる。その翌日ボリビア政府軍に包囲、攻撃を受けて捕まり、翌9日に銃殺されたのだ。39才という若さであった。

 ジョン・レノンが「世界で一番カッコイイ男」と絶賛し、サルトルが「20世紀における最も完璧な人間」と評したチェ。戦場でも読書をかかさなかったというチェの残した言葉は、今も我々に勇気を与え続けている。

・もしもわれわれが空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、出来もしない事を考えていると言われるならば、何千回でも答えよう「その通りだ」と。

・甘ったるいと思われるかもしれないが、言わせてほしい。ほんとうの革命家は、大いなる愛情に導かれている。愛のない本物の革命家なんて、考えられない。

・酒は飲まない。タバコは吸う。女を好きにならないくらいなら、男をやめる。革命家としての任務を最後までまっとうできないならば、僕は革命家であることをやめる。

・革命においては、勝利か、さもなければ死しかない。

・革命はリンゴではない。熟したから落ちる、というものではないのです。あなたが落とさなければなりません。

・人間は環境の奴隷と道具であることをやめ、自らの運命を設計することができる。

・僕はこの上なく素晴らしい日々を生きた。(カストロへの別れの手紙)

 回顧録を読むとチェが同士であったカストロへ全幅の信頼をおいていたことは明らかだ。

「われわれは勝利するか、死ぬかのどちらかである、それもわれわれだけで。われわれがわずか12名の仲間に過ぎなかったあの時以上に…あの頃以上に、…われわれが峻烈な闘争の日々を迎えることはあるまい。…威厳のうちに死を迎えるために仲間は不要である」

  フィデル・カストロ

 「…革命成就後は、その功績と献身により新政府の要職を与えられた。しかし、その地位を惜しげもなく捨て、後の権力を盟友カストロに託し、次なる「革命」に向かって行ったのだ。

 …権力の遂行は、革命ではない。不断の革命を行うためには、権力構造は毒にしかならない場合が多い。その意味で、ゲバラは歴史上まれに見る、革命の精神を持ち続けた真の革命家と言うことが出来るのではないか。…社会革命の恐さは、その『権力構造』にある。…みな、その権力の腐敗ゆえに滅び去ったのである。それゆえに、ゲバラは権力を放棄した。革命の精神は、権力を嫌っているのだ。

 …不断の革命に生きることは、痛みと困難を伴う」

  執行草舟著「憧れの思想」

 また、チェはキューバ革命後の1959年キューバ使節団長として来日を果たしている。超過密スケジュールの中 日本側に無断で大阪のホテルを抜け出し、夜行列車で向かった先は、広島記念平和公園と原爆病院であった。

アメリカにこんなにされてなお、君達日本人は彼らの言いなりになるのか」チェのあまりにも率直な問いかけに、我々はいつもの曖昧な態度でやり過ごすことしかできない。不甲斐ない。かつて日本の革命を成しとげた明治の人に合わせる顔がない。明治の申し子ともいうべき西郷隆盛とチェの間には「無私」という点はじめ共通点が多い。奇しくも共に道半ばでこの世を去って逝った。

     <天空の首都ラパス>

 チェの終焉の地は祖国アルゼンチンではなく、ボリビアの標高2200メートルにあるアンデス山中の寒村であった。

 2回目の南米~中米旅行の日記にチェは「田舎の少女のように無垢で素朴なラパス」と書き記している。

 首都ラパス空港の海抜は4,000メートルを超え、市街地も富士山より高い所に形成されている。しかもすり鉢状の周囲は坂だらけの地形である。高地ゆえ僅かな坂道や階段でもあっという間に息が上がる。従ってラパスの場合、裕福層は標高の低い谷底に、貧乏人は丘の上の見晴らしのいい土地にその居住区が形成された。

 むろん旅行者にとって注意すべき点は ペルー同様 高山病である。ヨーロッパアルプス辺りで症状がでたような人が訪れるような土地ではない。アルプスのような短時間の山の滞在で症状が出てしまうような人は、よっぽど体調が悪かったというのでない限り、高山病体質であることは明らかだから、こうした人が無理して行ったところで観光どころではなく、本人が辛い思いをするだけだ。前述のように玄関口である首都ラパスも富士山同等の標高であるため、ペルーのように最悪の場合 低地の首都リマへ戻って休養という訳にはいかないのだ。

 加えて米国経由で途中2度乗り継ぎが一般的なため、体への負担は言うまでもなく、経由地でのスーツケースの積み残しや予定便の遅れや欠航によるトラブルの可能性が他の地域に比較して格段に高い。要するにボリビア旅行には、チェ・ゲバラのような崇高な覚悟とはまたの覚悟を必要とする。

 しかしながらある種アドベンチャー的な旅を好む人にとっては、それはもう圧倒的に楽しい国だと言える。

 人気のウユニ塩湖について旅のアドバイス。冬、つまり日本の夏が乾季で、夏(日本の冬)が雨季となる。乾季には水が干上がって塩が結晶化した白い土地になってしまう為 インスタ映えする”鏡張り”の写真を撮るなら選択肢は雨季一択となる。但し温暖化とか異常気象により、正直そのタイミングはかなり難しい。適度な雨は必要だが、降りすぎると今度は移動が困難になったり湖面が泡立ってしまう。パッケージツアーに参加の場合は 現地旅行会社がレインシューズを用意をしてくれる場合が大半である為 日本から持参の必要はない。また塩湖の水は乾くと塩分が白く結晶化し、服につくと大変落ちにくい。黒っぽいパンツやジャケットは白い汚れが目立つが、白っぽい服装であれば目立ちにくい、一方、塩湖上での写真にはあでやかな色がよく映える。晴天であれば夜空も素晴らしいが、夜間の冷え込みが大きいので防寒具必携。湖上なので待機場所とかはないが、4WDの車の中にいれば寒さはしのげる。白く結晶化した塩を切りだした「塩ブロック」を使用して建てた塩のホテルが有名である。快適とは言い難いがせっかくなので話の種に一度宿泊してみるのも悪くはない。というのもこの辺りは例え一般的なホテルに宿泊したところで都会にあるような快適なホテルはほぼ皆無なのだから。