至福の読書・魅惑の世界旅行

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ルート66・米国「怒りのぶどう」スタインベック

・「できるかじゃなくて、やる気があるか。じゃないかね。…”できるか” なんて言ってたらなんにもできない」

・この勇気はどこから来るのか。すさまじい信念はどこから生まれるのか。…その中にはひどく残酷なできごともあるが、人間への信念を永遠に燃えつづけさせるくらいに美しいものもあるのだ。

・人間自身がある構想のために苦しんだり死んだりするのをやめるときを怖れるがいい。なぜならこの性質こそが人間自身の土台であり、この性質こそが宇宙の中で特別の存在である人間そのものだからだ。

・「まったく、たったひとりの人間でも腹をくくったら大勢を引きまわせるんだな!」      

    ☆  ☆   ☆  ☆  ☆

  1929年に始まった世界大恐慌後の1930年代、米国中西部を数年間の天候不良が襲った。この地域は元々 ダストボウルと呼ばれる砂嵐地帯で、乾ききった赤土が強風に舞って農作物を全滅させた。更に機械化をもくろむ地主から立ち退きを余儀なくされ、土地を失ったアメリカ中西部の農民たちの多くが、家財道具をオンボロトラックに積んで希望を胸に新天地カリフォルニアをめざした。

 しかし彼らの前に立ちはだかったのは何とも厳しい現実だった。長い旅の途中で年老いた者は息絶え、若い世代は嫌気がさして家族から離れてゆく。つつましい夢は脆くも打ち砕かれ、飢えに耐えながら放浪の旅が続く。長く過酷な旅の果てに辿りついた新天地カリフォルニアでは、同じ米国人から不当な差別を受ける。劣悪な住環境・理不尽かつ過酷な労働条件すら、今日食べるため、生きながらえるためには甘んじて受け入れざるを得ない。

 こんな過酷な状況の中で、絶望の淵で、人をギリギリ繋ぎとめたものが何であったか、その答えは読めばわかる。家族の強い絆、聖母マリアのごとき母性、人々の深い慈悲が 深く心にしみる名作。米国人の不屈の精神をも象徴した全くをもって秀逸な作品だ。

 映画では長男が家族から離れる場面で終わっているが、原作の小説にはまだ続きがある。特に最後の聖書を題材にした宗教画を彷彿とさせる章は圧巻、そもそも農民たちが自分らの土地を追い出されカリフォルニアに至る道程は出エジプトを思い起こさせる。

 祖先が開拓した土地を追い出された農民たちはもちろん被害者であるが、遡れば彼らの祖先がその昔インディアンたちに同様のことをしていたという事実も忘れてはなるまい。その後の米国の歴史は誰もが知るところである。実際 自身が米国人であった故サミュエル・ハンチントンは、自身の著作の中で、米国の罪は その「パワー・傲慢さ・強欲さ」にあると喝破している。そしてその米国と足並みを揃え二人三脚でやってきたのが戦後の日本だ。

「太宰の絶望は、絶望しないことにたいする絶望です。なにしろ、絶望と向き合わなければ希望は現れないのですから…幸福ばかりを装って絶望を否認した社会、それが戦後日本という社会だったのです。だとすれば、その社会を脅かし続けてきた絶望に今こそ向き合わなければなりません。闇の深い人間こそが、他人の苦痛により深く思いを馳せることができるのですから。

…バブル時代が訪れ、人びとは生きる意味の虚無さえ忘れるかのように物質的な豊かさで人生を埋めつくしました。人びとは思想ではなく、消費で自己の虚しさを満たしていきます。まるで、自分のうちに抱える虚無の闇から目をそらすかのように。

今日の世界を覆うグローバル資本主義が、経済格差を拡大することで一部の人間だけが繁栄を享受するというシステムにもとづく以上、だれもがだれかの犠牲になり同時にだれかを犠牲にすることからは逃れられないのです。…社会が繁栄するには、だれかその犠牲になる存在が必要なのだということにわたしたちは気がつきませんでした。…そこにこそ、戦後日本のヒューマニズムの欺瞞があります」

  磯前順一著「昭和・平成精神史」

過剰なヒューマニズムによってあるべき人間の姿が失われた現代人はどこへいくのか。

 

     <母なる道・ルート66>

「国道66号線は移住者たちがたどる主な道路だ。…赤い土地を通り、灰色の土地を過ぎ、曲がりくねりながら山岳地帯に入っていき、大分水嶺を越え、まばゆくも怖ろしい砂漠におりる。砂漠を渡りきれば、ふたたび山にあがり、その向こうの豊かなカリフォルニアの平地に入っていく。…66号線は母なる道、逃亡の道だ」

 小説のなかで農民たちが辿った道がルート66である。イリノイ州ミシガン湖畔のシカゴとカリフォルニア州サンタモニカ間を結ぶ全長2,347マイル(3,755キロ)、1926年連邦最初の国道の一つだ。イリノイミズーリカンザスオクラホマ、テキサス、ニューメキシコアリゾナ、そしてカリフォルニアと8つの州にまたがり、3時間の時差も存在する。小説の中では母なる道、the mother roadと呼ばれ、大河・大平原・山岳地帯・渓谷や砂漠を越えて大西洋まで続く道は、文字通り車社会の米国の礎となった歴史的な街道である。

 戦後 新設された高速道路(インターステイト・ハイウェイ)にとって代わられ、1985年には正式に廃線となり その役目を終えた。現在は道路番号も変わり 地図上から消失したものの 今でも部分的に走行可能、起点となるいくつかの町を中心に そのノスタルジックな佇まいが観光地として静かな人気を呼んでいる。歴史的街道という意味では、ドイツのロマンチック街道やカナダのメープル街道、日本の中山道熊野古道同様の街道と言えなくもないが、ルート66の総距離は 突出して長く アメリカの大地が、地平線が、どこまでも果てしなく続く。

 

「昔から絶えず変化してきたハイウェイ。いまそれは、八つの州のあちこちに散らばる舗装路のつぎはぎと化し、消滅しつつある。旅と車のよきロマンスの名残りすべてが。

…これはかのマザー・ロード、廃線となった旧ルート66だ。中年の巡礼者たちは、古きよき時代の名残りと事実とはまるで異なる思い出を求め、いまもそこを旅している」

  キャロル・オコンネル著「ルート66」

 

アメリカは大都市からなる国ではありません。どんな大都市でも、郊外を一歩でれば、もうそこにあるのは、どこまでも広大な空と、どこまでもまっすぐなアメリカの道です」

 長田弘著「幼年の色、人生の色」

 日本人ツアーでは ラスベガスからグランドキャニオン、もしくはゴールデンサークルと呼ばれる観光スポットを廻るコースの行き帰りに、この旧道沿いの町のひとつに立ち寄る場合が多い。その絶妙な寂れ具合は 別の言い方をすれば ノスタルジックで風情があり、実際アメリカの古い映画に登場しそうな味わいがある。そして今の世の中 世界中のこうしたスポットというのは多かれ少なかれ 例えそれがどんな僻地であろうとも 余すところなく観光客が足を踏み入れている。もちろんここも例外ではなく、タイミングによっては元床屋の土産屋も身動きできない程の盛況ぶりだ。

 閑話休題、ルート66ではないアメリカ大陸横断の話。20代の頃 サンフランシスコからニューヨーク近く迄 改造した古いスクールバスで旅をした。バックのギアがうまく入らない廃車寸前のオンボロバスに寝袋持参、キャンプ場を転々としながら およそ3週間かけて南回りの大陸横断旅行であった。1日中移動という日もあり…車中でひとしきり居眠りして目が覚めても 居眠りする前と同じ景色が広がっていた。その内またうとうとし出して再び目が覚めた時もまだ相変わらず同じ光景が延々と続く。やれやれ、なんて広い国なんだ(国土面積は日本の26倍なのだ)

アメリカを見る方法はひとつしかない。…飛行機や列車ではだめだ。足もとに大地を感じなくては。…ああ、この国のすごい大きさ。それは人間をひざまずかせる。この大平原、この広大な緑の広がりにはそんな力がある。きみが感じるのは圧倒的な空虚感だ。…そして変えられてしまうんだ」

  キャロル・オコンネル著「ルート66」

 途中 砂漠の真ん中で明かしたー夜を生涯忘れることはないだろう。実に貴重な時間、得難い体験だった。周囲何キロにも渡って町がないせいで、日が沈んで暫くすると辺りは漆黒の闇に包まれた。視力を失ったかのような錯覚を覚えるほどの真っ暗闇というものを初めて知った。頭上には光沢のある月が微動だにせずまばゆい光りを放っていたというのに、それすらブラックホールのごとき暗闇に吸い込まれて、地上までは到達不可能だった。仕事柄 世界各地の星空を見てきたが、あの晩以上の数の星を見たことは未だかつてない。何しろ360度、膝の高さまで無数の星が降り注いていたのだから。

 アマゾンのジャングルで同じような体験をした人がいることを知った。国分拓著「ヤノマミ」という本は、アマゾンの奥地で原初の生活を続けているヤマノミ族を追った渾身のルポルタージュで、一旦 読みだすとページをめくる手が止まらない。

「闇、なのだ。全くの、闇なのだ。初めての体験だった。…僕は赤道直下の深い森の中にいて、一人、陽が沈んでいくのを見ていた。…午後六時に陽が沈むと、一時間もしないうちに漆黒の闇に包まれた。…指先さえ見えない闇の中にいると、いろいろな感覚が研ぎ澄まされてゆく。視力を奪われる代わりに、触角や聴覚や臭覚が過敏になる。最も鋭敏になるのは聴覚だ」

 彼が言っていることはまぎれもない事実である。真っ暗闇になるような場所だから、冷蔵庫のモーター音とか車の騒音はむろん皆無、そういう意味では静寂に包まれると言ってよい。しかしそうすると今度は、人の寝息や寝返りをうつ床ずれの音が 拡大して聴こえ、それがまたいっそう静寂を引き立てるという、不思議な連鎖が起こりはじめるのだ。

「もしあなたがたが野天で夜を明かしたことがあるなら、皆が眠っている時分、ある不思議な世界がしんとした静けさの中に目を覚ますのを御存じでしょう。その時、泉はますます朗らかに歌い、池や沼は小さな炎を点す。あらゆる山の精が自由自在に行ったり来たりする。そうして空中には葉ずれの音、耳に入らないような響きが、枝が大きくなり、草が伸びるように聞こえる」

  ドーデ著「風車小屋だより」

「いつか、ここにたどり着くことはかなわなくなるだろう。ここは場所であると同時に時でもあるから。この満天の星さえも消えてしまうかもしれない。進歩の難点はそれだね。町の明かりで星が見えない」

  キャロル・オコンネル著「ルート66」

ニューメキシコアリゾナ、ユタなどの各州。そして、メキシコ北部。これらは皆、同じ一つの偉大な空の下にある。本来は、そこには国や州の国境線などというケチなものは存在しなかった。…そこは柔らかい線に包まれた土地の起伏の上で、枯れ草が風に揺れ、大海原のようにゆったりと波打つ場所である。鳥や獣や虫たちの命のざわめきが、風に乗ってささやきかけてくる。人間の息遣いすら聞えてくる場所である」

  西江雅之「異郷日記」

あのー夜は青春の宝物のひとつとして、自分の記憶の中で今でも瞬いている。

日本の若者たちよ、旅に出よう!!