至福の読書・魅惑の世界旅行

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コルシカ島「人間の土地」「夜間飛行」サン=テグジュペリ

     《 人間の土地 》

・彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、…待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。…彼の職務の範囲内で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。

彼もまた、彼らの枝葉で広い地平線を覆いつくす役割を引き受ける偉人の一人だった。人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。

・…死を軽んずることをたいしたことだとは思わない。その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしていないかぎり、それは単に貧弱さの表われ、若気のいたりにしかすぎない。

・ぼくは、自分の職業の中で幸福だ。ぼくは、自分を、空港を耕す農夫だと思っている。…ぼくには、何の後悔もない。…これはぼくの職業の当然の秩序だ。なんといってもぼくは、胸いっぱい吸うことができた、爽やかな海の風を。…問題は決して危険な生き方をすることにあるのではない。危険ではないのだ、ぼくが愛しているものは。ぼくは知っている、自分が何を愛しているか。それは生命だ。

・…先駆者のよろこびも、宗教者のよろこびも、学者としてのよろこびも、すべて禁じられたあらゆる職業の歯車に巻きこまれている。人は信じたものだった、彼らを偉大ならしむるには、ただ彼らに服を着せ、食を与え、彼らの欲求のすべてを満足させるだけで足りると。こうして人は、いつとはなしに、彼らのうちに…小市民を、村の政治家を、内生活のゼロな技術者を、作ってしまった。人は彼らに教育は与えるが、修養は与えない…。多少程度こそ違え、みんなが生れ出たいという欲求を同じように感じてはいるのだが、ただ誤った解決法が行われているだけだ。人間に軍服を着せることによって、これに生気づけることのできるのも事実だ。…彼らはまたその欲求する、大事に当る気概も見いだすはずだ。ただ彼らは、この差出されたパンのおかげで、生命を失う結果になる。

・たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味をも与えるはずだから。死というものは、それが正しい秩序の中にある場合、きわめてやさしいものだ。

・眠りっぱなしにされている人間が、あまりに多くありすぎる。

・精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。

     《 夜間飛行 》

・規則というものは、宗教でいうなら儀式のようなもので、ばかげたことのようだが人間を鍛えてくれる。

・部下の者を愛したまえ。ただそれと彼らに知らさずに愛したまえ。

・失敗は強者にとっては滋養になる。

・君は信じたりする必要はない、ただやりさえすればよいのだ。

・事業と、個人的幸福は両立せず、相軋轢するものだからだ。

・人間の生命には価値はないかもしれない。僕らは常に、何か人間の生命以上に価値のあるものが存在するかのように行為しているが、しからばそれはなんであろうか?

・外からくる不運というものは存在しないのだが、不運はつねに内在する。とかく、人が自分の弱さを感じる瞬間がありがちのものだが、すると忽ちそれにつけこんでおびただしい過誤がめまぐるしいほど押寄せてくる。

・人生には解決法なんかないのだよ。人生にあるのは、前進中の力だけなんだ。その力を造り出さなければいけない。それさえあれば解決法なんか、ひとりでに見つかるのだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 15年に及ぶ郵便機のパイロットとしての経験を元に執筆された本には、「星の王子様」だけでは決してわかりえない著者の思想が滲み出ている。サン=テグジュペリが仏のリヨンに生を受けたのは1900年、ライト兄弟が初飛行を遂げる3年半前のことである。むろん彼の生きた時代は、まだ航空路レーダーもない有視界飛行の時代だ。飛行は天候次第、パイロットの技術や経験が今以上に大きくものをいう、とりわけ長距離飛行や夜間飛行は運が悪ければ命と引き換えという時代である。アンデス山中で遭難した同僚はじめ、また本人も砂漠の真ん中に不時着・遭難して命からがら生還するという、死と身近に向き合った経験が 精神面に多大な影響を与えたであろうことは 想像にかたくない。読み進むにつれ 砂漠の真ん中で、アンデス山中で、ただ一人風の音に耳をすますような心の静寂に包まれる良書。

 現代の飛行事情は彼の時代から大きく様変わりし、計器飛行かつ自動操縦にとって代わられた。…昔 そう、忘れもしないカナダとエジプトの国内線でコックピット座って移動の経験がある。その理由はいずれも席の不足、つまり航空会社のオーバーブックによるものだ。何がなんでもそのフライトに搭乗しないことには その後の行程が大きく狂ってしまうのだから こちらも必死、そして当方と航空会社のせめぎあいの結果が コックピットの簡易席に結実したのだ。(むろん米国9.11.のテロ以前の話で、あのテロ前と後では あらゆることがすっかり様変わりした。今ではコックピット座るなんてことは、絶対にあり得ない)その時わかったことは 離陸と着陸時を除けば、操縦士はコーヒーを飲んだり ジョークをとばしてみたり、思った以上にリラックスモードだということ。文字通り命がけのサン=テグジュペリの時代とは隔世の感がある。彼がもし今の状況を見たら目を丸くするに違いない。

 1944年、フランス解放戦争に従軍中だったサン=テグジュペリは、偵察目的でコルシカ島の空港を飛び立った後、地中海上で行方不明となる。長いこと謎であった彼の消息は、半世紀以上を経てその全容がほぼ明らかになっている。マルセイユ沖合で見つかった偵察機、元独軍の兵士の証言、いずれも当初予想した通りの結果、つまりナチスの戦闘機隊と遭遇し 追撃されたという事実が明らかにされた。44才の夏のことだ。しかし 彼の著作を読めば、本人がこうした結末をある程度予測していたことや覚悟もあったことは明白だ。大切なことは、どれだけ長く生きたかではなく、どれだけ生命の炎を燃やし尽くしたか、それを痛いほどよくわかっていた人物なのだろう。自分もそうありたいと切に願う。

 ところでEU共通の通貨ユーロが導入される以前、フランスでは自国の通貨フランが流通しており、50フランは彼が消息を絶った紺碧海岸コートダジュールのような鮮やかなブルーで、そこにサン=テグジュペリ本人と小さな星の王子様が印刷されていた。実は長い間 彼の名前のスペルが誤っているということに誰一人気づかなかったという間抜けなエピソードもあったりするが、お国柄故 それをどこかの国のように糾弾する国民は不在のようだ。

   <美食のコルシカ島

 サン=テグジュペリが最後飛び立ったのはコルシカ島の空港だったが、コルシカ島と言えばナポレオンの出生地としての方がよく知られている。地図を広げると伊サルディーニャ島の目と鼻の先、仏ではなく伊の領土であった方がしっくりくる位置関係だ。島民が伊語訛りの仏語を話すと言われる所以でもある。

 仕事でたった1度だけ訪れたコルシカ島で思い出すのは、バケツほどの大きなの器に入った山盛りのウニを食べている人を見たこと。(日本以外でウニを食べている人を初めて見て驚いた…食事はどこもとても美味しくここはグルメの島だと認識した)、国内線の機内上空から雪山が見えたのが意外だったこと(島は想像以上に起伏に富んでおり、海岸線の町から内陸へ移動の時、カーブ続きで珍しく車酔いしてしまった)などだ。正直見るべきものはナポレオンの生家位しかないせいか お正月にも拘わらずお客さんは僅か3名、その後もツアーの集客はさっぱりだったようで、同ツアーがその後 催行された形跡はなく、コルシカ島のツアーはひっそりと姿を消していった。つまり最初で最後のツアーに運良く(?)行くことができたのだった。

 当時はコルシカ島の情報も少なく資料集めに苦労したことを記憶しているが、その少ない本や資料の多くにコルシカ島の住民は排他的云々ということが書かれていた。観光客として僅かな滞在ではそんな風には見受けられなかったが、個人旅行で長く滞在するとまた違った一面が見えてくるかもしれない。コルシカ島が舞台のメリメ著作「コロンバ」のなかに次のような文章がある。

「イタリアの町のように、大声で喋ったり、笑ったり、歌ったりする声はまったく聞かれない。…コルシカ人は生れつき重々しく、無口なのだ」

いかにもこの小説のテーマは復讐、コルシカ人に言わせると決闘、日本的に言えば敵討ちである。しかしそれも過去の話だ。

「こんな気候のすてきな土地で、絶対の自由を味わえるっていう魅力にどうして無感覚でいられるんですかねぇ?」

地中海の島はどの島もそれぞれに魅力的である。