・道路の両側はおおむね森だった。国土全体が瑞々しく豊かな緑色で覆われているような印象があった。…大きな翼を持った鳥が、地上の獲物を探しながら風に乗ってゆっくりと空を漂っていた。
・湖はまるで運河のように、うねりながら細長くどこまでも続いていた。おそらく何万年か前に、移動する氷河によって深く削られたのだろう。
・フィンランドの湖の畔で聴くその音楽の響きには、東京のマンションの一室で耳にするそれとはいくぶん異なった趣があった。
・シャワーを浴びて服を着替えたときにはもう夕方になっていた。しかし窓の外は真昼のように明るかった。
「…フィンランドの夏だよ。ここはほとんど夜中までぴかぴかに明るいよ」
北欧の夜の独特の明るさは、彼の心に不思議な震えをもたらした。身体は眠りを求めているのだが、頭は今しばらくの覚醒を求めている。
・意識の最後尾の明かりが、遠ざかっていく最終の特急列車のように、徐々にスピードを増しながら小さくなり、夜の奥に吸い込まれて消えた。あとには白樺の木立を抜ける風の音だけが残った。
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この小説の主な舞台は東京だが、名古屋と、そしてフィンランドの首都ヘルシンキと郊外のハメーンリンナが少しずつ登場する。全体を通してフィンランドの森の奥にひっそりと鎮座する湖のほとりで読んでいるような、しんとした静けさを一貫して感ずる小説だ。著者の文体には思いのほかフィンランドがしっくりと馴染む気がした。同じ北欧でもバイキングのノルウェーやスウェーデンではなく、ましてやドイツ、英国、南欧とかでもない。フィンランド人は嫌なことがあるとストレス発散に森に出かけて木に話しかける人が多い、と何かで読んだ記憶がある。村上氏の小説にはこうした行動を自然に受け入れそうな登場人物が多い、と思うのだ。なぜかはわからない。
実はフィンランドは色々な点において、ほんの少しずつ周辺諸国とは異質な国だ。まず祖先達は新天地を目指しバイキング船で繰り出して行ったあのバイキングではない。バイキングを先祖に持つのは、いわゆるスカンジナビア3国、つまりノルウェー、スウェーデン、デンマークである。フィンランド人の祖先はゲルマン人より我々日本人に近いウラル・アルタイ語族なのだ。ヨーロッパではハンガリーのマジャール人とバルト3国の一つエストニア人に近しい人々である。例えば名前も英語のようにファーストネーム、ファミリーネームの順ではなく、日本と同じ氏名、つまり名字が先にくる。フィンランド語でフィンランドはスオミ、ありがとうはキートスという。妙にカタカナ読みが馴染む。これらが正体不明の居心地の良さと関連性があるのかはわからない。
同じフィンランド・ヘルシンキが舞台の小説、群ようこ著「かもめ食堂」だが、話しの大半がタイトルでもある「かもめ食堂」内で進行し、そして完結するので、舞台はフィンランドでなく コペンハーゲンやストックホルム、あるいはエディンバラとかに置き換わっても大差ないんじゃないかとふと思った。あっさりした内容、すぐ読み終わるボリュームは、日本~ヘルシンキ間の機内で読むのに好都合だろう。
<フィンランドグルメ>
フィンランドの食事は美味しいという評判こそないけれども、決して美味しい食べ物がないわけではない。フィンランドで是非試して頂きたいものにサーモンスープとシナモンロールがある。そもそも寒い地域は大抵スープが美味しく、当たり外れの少ない無難なメニューなのだ。大きな鮭の切り身とゴロゴロしたじゃが芋が入ったクリーミーなサーモンスープは日本人の口によく合う。ヘルシンキ港の屋内市場や大きなカフェ等、ランチならボリューミーなスープとパンで十分。足りなければ食後にシナモンロールとコ―ヒーの組合せがこれまた絶妙である。米国『シナボン』の甘い甘いシナモンロールとはうって変わり、デニッシュといよりも甘さ控えめシナモン風味のロールパンに近い。この地味さ加減が国民性をそのまま反映しているようでもあり微笑ましい。参考までにフィンランド人は読書とコーヒー好きが多いそうだ。
村上春樹氏も紀行文集の中でフィンランドは食事がなかなか美味しかったと語っている。
「全体的にのんびりした北欧諸国の中でも、とりわけのんびりした国だ。派手なところはあまりないけれど、ゆるやかに静かに時間が流れているという印象がある。人々も親切で、あたりが柔らかだ。食事もなかなかおいしい。良いところですよ。一度行けば、あなたもフィンランド贔屓になるかもしれない。うまくいけば森でばったりスナフキンに遭えるかもしれないし…というのはもちろん嘘だけど」
そう言えば昔の歌謡曲にこんな歌詞の歌があった。
「森と泉に囲まれて 静かに眠る…」フィンランドのことですか?