至福の読書・魅惑の世界旅行

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京都・横浜「昭和・平成精神史」磯前順一

 「大きな瞳が虚無を映し出す」とよく言われていた沢田さんに注目したのは、ただシラケていただけではなかったからです。シラケを超えていく情熱を、歌やお芝居を信じることで、シラケているものを一生懸命生きて越えていくというメッセージを、表現行為に向かう姿勢から自然と発していたからだと思います。シラケ世代の虚無感とひたむきさは一見相容れないように見えますが、それがひとりの人間のなかに共存しているところが沢田さんの特徴でした。

 その沢田さんが参加したPYGというバンドの曲に「花・太陽・雨」というものがあります。…リーダーの井上堯之さんが「これはアルベール・カミュの『異邦人』をモチーフ作ったんだ」というコメントしたのを知りました。それは、色のない世界に花が咲く、なにもない世界に太陽が輝く、乾いた土地に雨が降る、そういう意味のない世界に意味をもたらしてくれるのがあなたの愛だという歌でした。

 そのもとになったアイデアは井上さんが若い頃から持っていたそうです。彼は伝記のなかでずっと自分が生きることがむなしくて、苦しくて、人気者になってもむなしかった。その苦しみを音楽という表現をとおしてぶつけてみようということで作ったと述べています。そのときに沢田さんに出会って、沢田というのは一生懸命とにかくやる。なんでも一生懸命やる。それは、エンターテイメントでも芸能界でもコントでもやる。歌もやる。どんな些細なことでも、欲しないことでも、自分が引き受けたことには積極的な意味を見つけようとしている沢田にこの歌を歌わせたいと、井上さんは感心していたそうです。

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 井上氏は「楽しむのは自分じゃないというショーマンの立場に立って、完成されたステージをくり広げる沢田に、頭の良さをしみじみ感じた」というコメントを残している。

 一方ジュリー自身はインタビューで「与えてくれたことを一生懸命やるというのが性に合ってるみたい…仕事だから頑張るのがあたりまえ」と答えている。

「僕はどんなTV番組であっても決してイヤな顔をしないで出てるつもりだ。歌手によっては、こんな番組なんて~と露骨に顔に出している人もいるそうだけど、そうだったら始めから出なければいい。出る以上は精いっぱい楽しくやるべきだ」 

「人の気で力以上のことができるんです。レコード大賞は決して頂点ではない。それは通過点にしか過ぎないんです。…ひとりの力だけではできないということ。…本当にすごいことができるのは、人の気が先ですよ。そのきっかけをつくるのはぼくですよね。…エネルギーをもらわないとできない。…この先頑張れなきゃ、何もならない」

 

 自分が決めたことを決めたように生きていると不器用に見えるのかもしれませんが、それがジュリーなのですね。

  國府田公子著「沢田研二大研究」

「ずっと頭を占めていることは、どうしたらもっともっと良い歌手に…音楽家になれるか?ということです。ぼくが、歌の中でいちばん大切にしたいのは『心』です。…自分の悩みなんか、だれにうちあけてみてもしかたがないと思えてくるんです。けっきょく自分だけでしか解決できないことなんですからねぇ」

  磯前純一著「ザ・タイガース~世界はボクらを待っていた」

「女の子にもてるために格好つけようぜ!」を合言葉に活動を始めたバンドがほとんどだったが、沢田は最初から方向性が違った。不純な思いはつゆほども持ち合わせていない。音楽に真っすぐ」

  岸部一徳著「我が道」

「 当時は、さぞかしいい思いをしただろう、と羨ましがられる。行く先々で、女の子に囲まれていたから。でも、ファンの子に手を付けたりはしなかった。そういうことを絶対にしなかったのが、ぼくと沢田研二

  萩原健一著「ショーケン

「上から何かを授かっているということでいえば…ジュリーはスケールが違う。

 ふだんは地味な人なのよ。…空港のロビーにいても、そうとは気づかれない。…キャンバスにたとえるなら、いつでも真っ白な状態なんだ。だからこそ何が来てもすぐ化けられる。柔軟性があるんだ。…そういう真っ白な部分を持ってないかぎり、いわゆるスターと呼ばれる存在にはなれないんだと思う。

 沢田さん本人は、音楽的にあれこれ注文をつけてくるタイプではないんですよ。リハの時でも、ほとんど何も言わない。…本番直前も寡黙だしね」

  村上ポンタ秀一著「自暴自伝」

 

 思えばあの頃、時代の空気が大きく変化し、ある種の居心地の悪さ、違和感を感じていたかつての自分を覚えている。軽薄さや明るさ、楽しいことだけをよしとする風潮は、当時マスメディアにのって瞬く間に日本中を席巻したように思う。そしてそれは「ネクラ」という言葉でその流れに乗らない人間を貶め、努力や一生懸命に何かをやることはカッコ悪いという認識に上書きされた。そしてその頃を境に沢田研二の姿をTVで見かけなくなっていった。しかし、それから30年以上の年月が流れ、75才になる孤高の歌手は半世紀を超え今尚歌い続けている。その気力や持続力は一体どこから生まれて来るのだろう。

 『存在自体が芸能史の大事件』という凄いタイトルがつけられた新聞記事に、著者 磯前順一氏の次のようなコメントが掲載されていた。「どんなに周りからもてはやされても自分に酔わず、努力を続け、人を引きつける。このオーラと天賦の才はイタコや宗教者のそれに通じるものがある。68年の時代の精神をジュリーこそが受け継ぎ、諦めず、孤独も恐れずに、表現し続けている」もうこれ以上はないだろうと言うほどの賛辞、べた褒めだ。

 一方のジュリー自身はかつて26才とは思えないほど客観的に自らを語っていた。「本当は地味で慎重すぎるくらいの性格、人気者になっても決して浮ついてはいなかった、自分自身の欠点もよく知っているし、凄く冷静だ」と。

 更に「我が名は、ジュリー」という自伝のインタビューで彼は、運に恵まれ、成行きで現在の自分があるとも答えている。成行きの結果がこれなら、スーパースターの星の元に生まれついたとしか言いようがないではないか。「宿命」というものについて興味深い考察を紹介したい。

「『普通の生き方』は、自分の生きるべき場所で生きるということです。…自分に与えられた生き方をすることなのです。そして、与えられているものは全員違います。…普通に生きた結果、会社の社長になる人もいれば、普通に生きているうちにスターになる人もいます。…スターになる宿命をもって生まれてきた人が、普通に生きればスターになるのです。宿命として与えられているものは、人それぞれ違うので、どうなるかはわかりません。ただ、スターになる宿命に生まれていない人は、どれだけ憧れても、どれだけ努力しても、絶対にスターにはなれないのです。なろうとするほどに人生が歪む。…逆に、スターになる宿命をもって生まれてきた人が、平凡な生き方がしたいと思って引退しても、不幸になるだけなのです。自分に与えられた道を進むのが普通の生き方であり、それぞれ個人個人の幸福もその中にしかないのです。…そして、人間の生命は、絶えざる自己の超克をその本質としていることを忘れてはいけません。だから、普通とは、無限の生命の燃焼に身を預ける生き方でもあるわけです」

  執行草舟著「生命の理念Ⅰ」

「人間の価値は、その人間の燃焼によって決まる」 同上「現代の考察」

 生命の燃焼に身を預ける。…かつて自身の子供のことについて聞かれた28才のジュリーは次のように答えている。「…子どものために何かを残してやるつもりもない…。ぼくはぼくの代だけで燃えつくせればいいと思っているんです」と。この答えを聞いた記者はそれを自己中心的と受けとめたようだったが、その13年後 彼は妻と一人息子に莫大な財産を残し、身体一つで家を出たと言われている。かつて西郷隆盛は「児孫の為に美田を買わず」と言い、暗にその物質至上主義を戒めた。我々現代人は『魂の燃焼、生命の燃焼』について、今一度立ち止まり、考え直す余地があるのではないか。残された時間は多くはない。

      <京都と横浜>

 歌番組やトーク番組、あるいはインタビューでの問いかけの度に彼の口から漏れるのは「…そうですねぇ…」といういかにも京都らしいゆったりとした口調、真摯で気どりのない言葉。派手なイメージと実際の彼の語り口のギャップは余りに大きく、それが更なる魅力となって、ますます心を鷲掴みにされた女性ファンが当時どれだけいたことだろう。

 ジュリーの最初の記憶は故郷の京都、当時 左京区東田町の辺りは草むらで家の前も畑だったそうだ。コロナ騒ぎもやっと収束したことだし…そうだ、京都に行こう!

 …現在のジュリーは神奈川県民ホールのコンサートで自ら地元と公言するように横浜市民・山手在住だ。その県民ホールは残念なことに老朽化が理由で閉館が決まったが、修復・改装した上で再開を待ち望む。

 横浜でも再び外国人旅行者の姿をそこかしこで見かけるようになった。しかしそんなことなどどこ吹く風、横浜の空の下ごく普通の日常生活を送っているであろう、かつては若い女性の憧れ、今では団塊世代の希望の星ジュリーには少しでも長く現役で活躍してもらいたいと切に願う、同時に磯前氏には続編・令和の精神史の執筆を期待したい。