至福の読書・魅惑の世界旅行

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ギリシャ 「遠い太鼓」 村上春樹

 ・そう、ある日突然、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。…ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきた。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。そしてその音を聞いているうちに、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。それでいいではないか。遠い太鼓が聞こえたのだ。今となっては、それが僕を旅行に駆り立てた唯一のまっとうな理由であるように思える。

灯台の上をイルカのような形をした雲が通り過ぎていくのが見える。貨物船はじっとそこにうずくまって、世界中の時間と音を吸い込もうとしているみたいに見える。

・毎朝目覚めると、我々はまず最初に窓を開けて海を見た。寝室の窓からはうまい具合に海が一望のもとに見下ろせた。海が穏やかで、白い波が立っていないとわかると、港まで魚を買いに行った。

・そのうちにまわりのゾルバたちもだんだん我々の存在に馴染んでくる。まあ…がああ言うんだからしようがないという感じになる。こういう人間の心持ちの温かさというのはギリシャならではのものである。

ギリシャ人というのは実に挨拶の好きな国民である。日本人がお辞儀と曖昧な微笑を好むように、アメリカ人が握手と訴訟を好むように、フランス人がワインとハワード・ホークスの映画を好むように、ギリシャ人は挨拶が好きなのだ。…挨拶好きというよりは挨拶の達人と言っていいのではないかという気がする。

・日当たりの良い国、ギリシャ。                         そしてしょっちゅう何かが故障している国、ギリシャ

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 著者が1986~1989年の約3年間ヨーロッパに住んでいた時の滞在記・旅行記である。読み物として絶対的に面白い。著者の淡々としたどちらかと言うとク―ルで乾いた文体が、様々な旅のエピソードの面白みを増幅させて、ところどころ声を挙げて笑ってしまう箇所が複数ある。また、下手なガイドブックよりもギリシャやイタリアという国の特徴を的確に伝えているのは流石と言いたい。

 ギリシャと言えば古い映画「その男ゾルバ」を思い出す。アテネの外港 土砂降りのピレウス港から始まる冒頭の場面が印象的な映画だ。調子のいいクレタ人と知り合ったばかりに最後スッカラカンになってしまう英国人の物語。ハッピーエンドとは言い難い最後なのになぜか五月晴れのような清々しさ、余韻が残る名作だ。

 そしてクレタ島というと昔泊ったクレタのリゾートホテルを思い出す。チェックイン当日の晩は故障で全くお湯が出なかった。よくある事ではないが、珍しくもない。

クレタというのは結局のところ良くも悪くも荒っぽくて、ザツなのだ」(遠い太鼓)

 別の田舎のホテルで、お客様の客室のバスルームの床にスリッパがぷかぷかと浮かんでいるという驚愕の光景を目にした時は、さすがに言葉がでなかった(排水管が細く上下左右の部屋の使用が重なると床の排水溝から排水が逆流することがある。ヨーロッパのホテルは基本古い田舎のホテル程、こうしたハード面のトラブルに遭遇する可能性が高まる)

 一方、ソフト面では好い意味で裏切られる事もある。そのクレタのホテルには、地元の素朴なおじさんおばさんが大勢働いていた。一流のサービスとはかけ離れた応対ながら、ホテルというよりむしろ一般家庭に迎え入れられたかのような肩の力の抜けたサービスは、イライラした私の気持ちを少しずつ溶かしていった。そして最終的にはリラックスできる居心地の良いホテルという印象しか残っていない。また泊りたいホテルという時に、なぜかあのクレタのホテルを思い出す。良質なホテルの条件は、人間と同じように見かけの豪華さや使い勝手だけではないのだ。それにしても著者がギリシャパトラスで宿泊したホテルのエピソードは抱腹絶倒、スペインのホテルで似たような経験をした自分には著者の気持ちが痛いほどよくわかる。

     <ヨーロッパの僻地>

 小説「スプートニクの恋人」では小学校教師である主人公が生徒にむかってギリシャのことを次のように語りかける。

南ヨーロッパ、地中海にある。島が多くて、オリーブがとれる。紀元前500年頃に古代文明が栄えた。アテネでは民主主義が生まれ、ソクラテスが毒を仰いて死んだ…とても美しいところだよ」

ギリシャという国を100字以内で説明せよと言われた時、これ以上簡潔で完璧な答えがあるだろうか。

 二十数年前迄はまだオリンピック航空が南廻りで日本に就航していた。時代の流れと共にやがてKLMオランダ航空やルフトハンザドイツ航空にとって変わり、最近はエミレーツ航空等中近東経由が主流である。つまり日本からギリシャは思いのほか遠く、直行便が就航しているロンドンやパリとは違う。典型的地中海性気候で冬場は雨が多く、特に冬時間に切り替わる11月もしくは10月末頃から不定期にまとまった雨も降る。言うまでもなく訪れる時期の選択を誤ると真っ青なエーゲ海を見逃し、しょんぼり帰国の途につく可能性があるので、訪れる時期は慎重に検討する必要がある。オススメは4~5月か9~10月中旬、泳ぐなら5月末~9月、遺跡の観光目的の場合 真夏は暑過ぎてくじけそうになるかもしれない。

「地中海性気候を少しでも体験した人ならばわかるのだが、晴天つづきの夏が終わった後に降り始める雨は、シチリア人の言う『まじめに降る』雨になる。静かに降る雨ではなく、しのつく雨である。これに強風が加われば、もはやまぎれもない嵐だ」

  塩野七生著「ローマ亡き後の地中海世界4」

「昼下がりの広場には人影はほとんどない。一日のうちで最も暑い時刻だ。町の人々はみんな涼しい家の中に閉じこもり、多くは午睡を楽しんでいた。こんな時刻に外に出ている物好きな人間は外国人くらいなものだ」(スプートニクの恋人

その通りだ。

「夕方に一人でアクロポリスの丘にのぼった。そして平らな岩の上に横になり、夕暮れのそよ風に吹かれながら、照明を当てられて青い夕闇の中にほんのりと浮かびあがる白い神殿を眺めていた。美しく幻想的な風景だった」

またいつかライトアップされたアクロポリスの丘を眺めながら、エギナ島のピスタチオナッツをつまみに良く冷えたビールを飲みたいと思う。ギリシャアイルランドと並んでヨーロッパの愛すべき僻地なのだ。