至福の読書・魅惑の世界旅行

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アイルランド「ケルト人の夢」マリオ・バルガス・リョサ

・それは彼の最後の情熱、最も激しく、揺るぎない情熱、彼を憔悴させた情熱、そして彼を死に至らしめるであろう情熱だった。『泣き言は言わないぞ』と彼は繰り返し自分に言い聞かせた。何世紀にも及ぶ抑圧が、アイルランドにあまりにも多くの苦しみと不正をもたらし、この気高い大義に自分を捧げることには価値がある。

「白か黒かはっきりしたことなんて何もないのよ、ロジャー」

・「コンゴで学んだことがあるとすれば、人間ほど残忍で始末に負えない動物はいないということです。 …コンゴの奥地へ入っていった3ヶ月と10日の旅の後、ふたたび祈るようになりました。辛いことが多すぎて、気が狂うと思っていたころです。それで、人は信じることなしには生きていけないということに気づいたんです」

・…あの世というものが存在し、死者の魂がそこから生者のはかない人生を眺めているとすれば、きっと今この時も…ずっと僕を見守ってくれているにちがいない。

・…神の考えは人の理性と言う限られた場所には収まらない。そこに押し込むにはヘラを使わなければならない、なぜなら決して全体が収まりきることはないからだ。

「神に関することは考えるのではなく、信じなければならない。…考えると、神はふっと吐いた煙草の煙みたいに消えてしまうのさ」

・「我々は誰もが死を恐れていると思います。しかし、死は至る所に存在します。…祖国のために戦って死ぬのは、家族のためあるいは信仰のためと同じくらい価値がある」

穏やかな気持ちだった。これまで何日、何週間と突然震えをもたらし、背筋を凍りつかせた恐怖は、すっかり消え去っていた。今や平静な気持ちで死に向かうことができると確信した。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 かつてこんなアイルランド人がいたことは殆ど知られていない。主人公のロジャー・ケイスメントは外交官としてアフリカ・コンゴと南米・アマゾンに赴き先住民への虐待告発に注力、帰国後は母国アイルランド独立に奔走した人物だ。結果、大英帝国から反逆罪で逮捕され処刑された。享年52才。コンゴと南米、志半ばで人生に終止符が打たれる等 チェ・ゲバラを彷彿とさせるが、チェ・ゲバラがこの世に生を受けたのはロジャーの死の12年後、チェ・ゲバラと違い日本では無名に近い。

 結末がわかっているが故に、読んでいる途中からやるせない切ない気持ちがつのる。彼の死後百年余りを経てノーベル賞作家がその生涯をしたためた鎮魂の一冊だ。

 アイルランドはヨーロッパの辺境・大英帝国の隣りという立地条件も災いし、多くの苦難が立ちはだかる試錬の道を歩んできた国だ。じゃが芋飢饉の遠因ともなった大英帝国の圧政による弾圧と迫害。その反面、こうした逆境が困難に立ち向かうアイルランド魂を培う結果に繋がったと言えなくもない。主人公を通して著者は次のように考察する。

「彼らはその禁欲主義、勤勉さ、辛抱強さによって植民者の圧倒的な存在に抵抗し、自分たちの言語、習慣、信仰を守り抜いてきたのだ。…彼らのおかげでアイルランドは消滅せず、いまだに一つの国なのだ」

同じアイルランド人で詩人のイェイツの次のような言葉も引用している。

「私に言わせれば、ロジャー・ケイスメントは自分がなすべきことを行ったのだ。彼は絞首刑で死んだが、それは少しも目新しいことではない」

 

『…アイルランド革命で、同志がみんな処刑されたときに詠んだ詩の中の言葉です。革命に燃えた人たちが殺されたことによって、イェイツは「恐るべき美が生まれた」ということを詩の中に書いている』

『歴史を見れば分かりますが、歴史は身を捨ててきた人間たちの世界です』

 執行草舟著「現代の考察」「日本の美学Ⅰ」

 

 遅ればせながら主人公の冥福を祈ると共にアイルランドという国に敬意を表したい。どの国も彼のような、その多くは無名の人々の犠牲の延長線上に「今がある」ということを我々は深く認識すべきなのだろう。

 そしてそれ以上にヨーロッパ発展の陰で艱難辛苦を味わされたアフリカの人々、南米の先住民の存在をも。人権活動家でもあった主人公は次のように自問する。

コンゴとアマゾンは、遠く隔たっていながらも同じ臍の緒で繋がっていると…思った。利益に目がくらむと、残忍な行為はわずかに形を変えるだけでふたたび繰り返される。それは生まれたときから人に備わる原罪であり、果てしない悪のひそかな源である」

過去から現在迄 欲望に飲み込まれた人間はきっと星の数ほどいる。魂の力で欲望を使いこなすこと、そうしなければ人類はもはや動物と一緒らしい。

『実社会の経験はすべて欲望であって…魂の力とは成り得ないのです。…この地上というのは、我々が物質と認定しているものしか感知できない。魂は宇宙に通じるものなのだけれども、肉体というのは地球の物質です。我々の感覚というのは動物と同じで、我々の五感に触れるものしか感ずることが出来ない。…この物質社会というのはすべて欲望で動いている。…欲望だと分かっていないと欲望に食われてしまうのです。…欲望というものは、魂によって使われるものでなければならないということなのです。人生を生きる上で用いるその使用価値が欲望なのです。…欲望というのは生きるための道具なのです。…今は欲望のことを志、憧れ、夢だと思っている。とんでもないです。人間の志というのはそういうものではない。魂が行なうものです』

  執行草舟著「日本の美学Ⅰ」

 

アイルランド魂とケルティック・タイガー>

 本のタイトル「ケルト人の夢」はアイルランドが英国から独立を果たすことを指す。1937年アイルランドは念願の独立を果たしたものの、長年にわたる大英帝国の影響は計り知れないものがあると実感したのは、他でもない彼の地を初めて踏んだ時だ。著者の見解とは少々異なり、アイルランドは一から十まで殆ど英国と変わらない印象だった。違ったのはフレッシュなギネスビールの味くらいだろうか。あらゆる点において英国の影響が色濃く影を落とし、食事・風習に始まって、国の要となる言語、彼らの母国語・ゲール語はもはや風前の灯だ。ケルトらしさみたいなものは容易には感じられず、正直がっかりした。英国とは違うアイルランド固有の「何か」を期待していたが、ケルトの名残りはもはや墓碑のケルト十字くらいにしか見られなかった。

 その一方、アイルランドは郷愁というか、しみじみとした懐かしさを感じさせる不思議な魅力ある島だった。忘れていたようで実はそうではなかった遠い日の記憶、在りし日の夏にまだ幼い自分が肌で感じたあの一瞬が蘇る感覚を侮ることはできない、また行きたい気持ちがふつふつと沸き起こってくるのだ。

 そんなアイルランドにもやがて日本のバブル期を思わせるキラキラした時代が訪れる。1995年から2007年頃迄のアイルランドは目覚ましい経済成長を遂げ、それはケルトの虎、ケルティック・タイガーと呼ばれた。しかし日本同様 2008年にはバブルもはじけ、その後は一進一退といったところだ。

 それでも彼らには荒波を乗り越えてきた長い歴史がある、逆境に強く、へこたれない不屈の精神・アイルランド魂がある。そしてそれはある意味、最もアイルランドらしいケルトの宝と言えるのではないか。日本に大和魂はまだ残っているか?

ケネディ関係の本を読んでいて分かることは、この人が一番大切にしていたのが、やはりアイルランド魂だということなのです。…アイルランド魂というのは、何にも頼らない自助努力と独立自尊の精神です」

  執行草舟著「日本の美学Ⅰ」

 閑話休題アイルランドでギネスビール以外に美味しかったものというと「バター」が思い浮かぶ。実際お隣り英国を旅していると、ホテルの朝食や町の飲食店でアイルランド産バターが当たり前のように出てくることは決して珍しいことではない。当然アイルランド滞在中は、毎日パンに芳醇なバターをこれでもかとたっぷり塗りまくって食べる。更にアラン島の滋味溢れる生牡蠣、酸味の強いルバーブを使ったスイーツもさっぱり美味しい、アイリッシュシチューは当たり外れがあるので複数回試すことをオススメする。

いざ行かん、今こそヨーロッパの辺境、アイルランドへ!

 因みに本の中で主人公が最初に出向いたコンゴ(旧ザイール)には行ったことがない。恐らく今後も行くことはないだろう。一方、アマゾンは肉を餌にして釣ったピラニアが船内ですぐ調理され昼食に出されたピラニアの唐揚げの印象が余りにも強い。とにかくピラニア釣りのインパクトがすご過ぎてそれ以外のことは余り覚えていないのだが、熱帯雨林のジャングルで蒸し暑さが半端なかったは覚えている。