至福の読書・魅惑の世界旅行

コロナ影響下 失業中の海外添乗員による本・海外旅行案内

セビリア 「カルメン」メリメ

・ジプシーの目は狼の目  スペインの諺

・水音をたてて流れている川には、水か小石が必ずある  ジプシーの諺

セビリアへ行かれたことがおありなら、城塞のはずれのグアダルキヴィールの岸に立つ、あの大きな建物をごらんになったに違いありません。私にはいまもまだあの工場の正門とそのそばの衛兵屯所が目に見えるような気がします。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ジプシーの女 カルメンに惚れてしまったのが運のつき、まじめな青年ドン・ホセは、まるでジェットコースターに乗ったかのように 坂道をころげ落ちてゆく…どころか 道から放り出される始末…合掌。ビゼー作曲のオペラ「カルメン」の原作としても有名なメリメの短編小説。あの有名なプレリュードのフレーズが頭の中で何度もこだまする。

小説の文末にはジプシーに関する詳細な記述がある。近年 派手なテロなどの陰で殆ど話題にのぼることもないが、ヨーロッパ各地に居住する多くのジプシーと ヨーロッパ人の間には、未だそしてこの先もずっと広くて深い溝がある。詳しくは本を読んでもらった方が手っ取り早いが、ルーマニアブカレストで「ジプシー御殿」なるものを見た。ネオクラッシック様式とか幾つかある既存の様式のどれにも当てはまらない独特な建物で、しいて言うなら 西洋と東洋の折衷、洗練された建物とは言い難い外観だった。そう、ルーマニアにはジプシーの国会議員だっている。彼らに手を焼いていることはガイド氏の話でも 痛いほどよく理解できた。政府は彼らに日本で言えばUR住宅のような住居を無償提供した。しかし公共料金を払わないから、やがて電気もガスも止められた。すると彼らは木製の窓枠とかを取っ払っい、それを燃やして使用した。結果 新築住宅は瞬く間にスラムと化した。また フランス政府は片道切符を渡して追っ払っているが、暫くするとまた舞い戻って来ては、パリでスリをはたらく。 未成年の子供達にやらせている為 例え捕まっても暫くすると 釈放されて また同じことを繰り返す。 EUルーマニアに対し 何とかするようジプシー対策の補助金を捻出しているが、額も不足で根本的な解決には程遠いようだ。要するにヨーロッパ、とりわけパリやローマ等都市部を旅行する際は、ジプシーへの注意が必要不可欠、本当にお気をつけあれ。彼等は盗みのプロフェッショナル集団なのだ。

「おお ジプシーの町よ、

一度でもお前を見たら 誰がお前を思い出さずにいられよう?

わたしの額にお前を探せ 月と砂のたわむれを」

 ガルシア・ロルカ著「ジプシー歌集」

「世の中に怖いものなしという連中で、迷信以外には宗教をもたず、言語は多種多様な彼ら独自のロマニー語を使っている」

  ブラム・ストーカー著「吸血鬼ドラキュラ」

   <セビリアと闘牛とフラメンコ>

アンダルシア地方最大の都会がセビリアだ。アラビア語で大河という意味のグアダルキヴィール川で二分され、オレンジの木や薄紫色の花が咲くジャカランダが街路樹に植えられた街並が美しい。しかし 夏は暴力的な暑さとなる。35度は当たり前、40度でも驚きはしない。観光で訪れるなら真夏は避けた方が賢明だが、暑さにはめっぽう強いと言う人なら 逆にこの時期すいているので悪いことばかりでもない。しかも冷たいサングリアやビールがより美味しく感じるというおまけ付きだ。いずれにしろ日中は熱中症の危険あり、スペインの習慣に習い 冷房の効いたホテルの部屋でまったりとシエスタ、つまり昼寝でもして 日が傾いてから再び街に繰り出すのが正解。そもそもスペインの時間的行動基準は、日本と2時間位の時差がある(実際の時差は夏時間採用時で7時間)昼食は2時頃から、夕食は20時半頃からで、テーブルが回転しない高級レストランの中には夜21時オープンという店すらある。日本ならそろそろラストオーダーの時間だろう。

そんなスペインの長い夜を過ごすのにもってこいなのがフラメンコだ。ロシアのバレエ、イタリアのカンツォーネポルトガルのファド、アイルランドアイリッシュダンス等、各国夜のエンターテイメントは色々あるが、スペインのフラメンコとアルゼンチンのタンゴは頭一つ抜き出ている感がある。とりわけフラメンコは その音楽のリズム・旋律に東洋的側面があるせいか 日本人の琴線に響く。フラメンコを見せる店をタブラオ(板張りを施した舞台の意)と呼び、セビリア規模の街には複数存在する。店の規模や内容は様々だが、HPをもつところも多く 事前に比較検討が可能。同じアンダルシアのグラナダでは変わり種・ジプシーの洞窟フラメンコも楽しめる。その内容だけで比較すれば 正式なタブラオフラメンコの方が時間も長く内容も濃い。但し 洞窟住居を見てみたい、ライトアップした夜景を見たいという方にはオススメできる(大抵の洞窟フラメンコは夜景鑑賞が組み込まれている)

そしてもう一つは スペインの魂とも言うべき国技・闘牛だ。タブラオ同様 スペインではある程度の規模の街には闘牛場がサッカースタジアムと同じように普通に存在する。町の規模に合わせ収容人員も数百人という小さなものからマドリッドの2万人を上回るものまでピンキリだ。熱狂的ファンは相変わらず存在するし、闘牛専門チャンネルもある。しかし独立問題に揺れているカタルーニャ州等一部地域では 闘牛が廃止されて久しく、国営放送での生中継も既に廃止となった。欧米で発言力のある動物愛護協会からのクレームも影響しているに違いない。屠殺と異なり一気に殺さずジワジワと痛めつける闘牛は、見る人から見れば虐待と映るのであろう。八百長問題で揺れた日本の相撲同様、伝統的競技はどこも受難の時代のようである。

 

 

 

 

 

 

トロイ・ミケーネの遺跡 「シュリーマン伝」ルートヴィッヒ

 ・…たくましい天性は、こんな災難さえも、やがて福に転じてしまったのだった。…こんな不運に見まわれたものの、それは結局、運命によって仕組まれたぼくの幸福と利益のおぜん立てのようだった。

・…神の摂理でまったく不思議なふうに助かったことが何度もある。ただただ偶然のおかげで、確実と思われた破滅から救われたことも一再ではない。 「古代への情熱」より

・だが彼は、月給の半分を勉強のために使っていたのだ。彼はスパルタ式生活をやっていた。そしてその節約した金を家へ送っていたのだ。彼をひどいめにあわせただけのあの父、母を早く死なせ、彼の初恋をぶちこわし、アメリカ行きの希望をふみにじったあの父が、息子にはいまもってふしぎな力を及ぼしていて、息子はこれからさき30年ものあいだ、たえずいがみあい、いきりたった手紙をやりとりしながらも、しだいに多額の金を送りとどけるのである。父に、また兄弟姉妹に。

・秘書も使わないで書類をたえず収集整理すること、おびただしい文通の返事を書くことも、彼には義務であり、つとめだった。手紙を書くときは、一世紀前の商人の流儀で、いつも背の高い机に向かって立ちながら書いた。最後の21年間、手紙はギリシャ語、フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語で書かれた。客と話をするときは、例外なく相手の国のことばを使った。計算や勘定は生涯オランダ語でやっていた。…3桁の掛け算は暗算で即座にできた。

シュリーマンの活動で、一番強い影響を残した点は、彼がとつぜん、考古学という学問に動きをもたらしたことであろう。手術によってからだに活がはいって治療に向かうように…。

・ナポレオンがプルタルクを信じなかったら、あのような大きな目的をたてることさえしなかっただろうし、シュリーマンホメロスを信じなかったらトロイアを捜すこともなかったであろう。

シュリーマンが登場したとき、ホメロスが現実を描いているという、あの信仰を笑いものにしないような文献学者は、ドイツにはほとんどひとりもいなかったし、…遺跡を切断したり、部分的には破壊したりした、その野蛮さを非難してやまなかった。

シュリーマンが死ぬことなく、またこの事実に直面して頭を冷やすことがなかったとしたら、この戦いはさらに続いていたことであろう。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ホメロスの歌ったトロイは、かつて19世紀の学者や歴史家、考古学者たちの多くが神話と見なしていた。しかしシュリーマンは、トロイが古代ギリシャ叙事詩イリアス」の 中だけでなく 実在したものと信じ、その発掘を夢みる。商人として成功した後は、それで築き上げた財産をトロイ 更にはミケーネの発掘へとと投入、結果 発掘に成功する。多くの歴史家や考古学者を出し抜いて遺跡オタクのごとき一商人が、半ば伝説と化した遺跡を発掘したのだ。子供の頃の夢を実現させたと同時に、それは世紀の大発見でもあった。

商人のシュリーマンとコメディ俳優のチャップリン、全く異なる職業にも拘わらず、自伝を読むと2人の若い頃は奇妙によく似た印象だ。いずれも逆境を避けるのではなく 真正面から立ち向かう、来る波 大波を次々に乗り越えるサーファーのように。遂には成功者として世間から礼讃される立場に至るが、そこに至るまでの数々の艱難辛苦、波乱万丈のエピソードは 意外にも苦労というより 心踊るものだ。彼らの躍動する生命が、現代人が失ったであろう、しかし心の奥底で眠る大事な「何か」を揺さぶるのだろう。

。。。実はこの本、図書館で借りて読んだのだが、最初差し出された本を見るなりギョッとして思わずガン見した。なぜなら余りのボロボロさ加減が半端でなかったから。裏表紙をめくると 何と半世紀以上も昔、あろうことか自分が生れた年に出版された本だった。どうりで自分の身体もボロボロなはずだ。もう1冊の自伝「古代への情熱」は、新潮や岩波から文庫本で出版されているので入手しやすい。

さて、最近立て続けに本を出版されている執行草舟氏の本の中に、シュリーマンと考古学に関する興味深い記述がある。世間一般の認識とほぼ180度異なる見方には、深く考えさせられる点も多いで、少々長い引用になるが紹介したい。

「現代は二つの大きな誤まった見方によって、シュリーマンという偉大な人物を捉え間違えています。一つは有名になったり富を築くことに人生の大きな価値があると見なす誤りです。そしてもう一つは、子供の頃の夢を大人になって実現させることは素晴らしいと考える誤りです。シュリーマンの偉大性は、子供の頃に抱いた大きな夢を断念して、貿易商として生きた点にあるのです。…シュリーマンは貿易商をしていた時は、一切の我がなかったのです。だからいい意味で科学的であり、信念があって、商人の本道に則っていたのです。ところが、長年の夢だっだトロイアへ行ってからは、人間的魅力がなくなってしまった。トロイア遺跡の発掘は、学問的にみても、文化的に見ても、すばらしいことです。しかし、たとえそれがどんなに崇高に見えるものであっても、好きなことであったならば、それは我なのです。その証左がシュリーマンの晩年とも言えるでしょう。我が必ずどこかで理屈をつけて、感情に流され、人間を本道から外させてしまうのです。…元々我のない人間は、使いものにはならないものです。しかし、我を押し通しても、自己の人生は破滅する。このどちらかに決めることの出来ない、物理学でいう不確定性理論のようなところが、生命の難しさであり面白さとも言えるのです」

  執行草舟著「生命の理念Ⅰ」

「…現代の歴史学と呼ばれるものは歴史ではなく、むしろ考古学です。考古学は人間でいえば動物学の範囲、肉体の範囲だけを見ているということです。つまり、物質的に目に見えるもの、確定されたものだけを並べていくものです。…考古学のように新発見があるものでないと、現代の名声には繋がりません。…神話が本来の歴史であり、考古学は現代民主主義の時代しか通用しない科学信仰から生まれた物質的な歴史学なのです。ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』…というのは正式な歴史書です。…現代の学者は、それを単なる空想として閉じ込めてしまいました。ホメロス叙事詩や『古事記』は立派な歴史書なのです。現代の歴史学者のように、考古学的な証拠がなければ歴史とは見なさないという考え方の方が間違っています。考古学的証拠などある方が珍しいですし、そんな物的証拠によって証明されることは、神話の価値に比べてまったくどうでもいいことばかりです。

要するに、真の歴史は科学ではありませんし、科学でないどころか学問でもないのです、従って歴史学という呼び方も間違いです。歴史は神話であり血なのです。ですから、人間の方が歴史に合わせて生きるべきものなのです」

  執行草舟著「生命の理念Ⅱ」

成功哲学が染みついた現代人にとって、氏の考え方は全くをもって受け入れ難い。多くの人の反発も容易に想像がつく。しかし、世間の反論や否定、誤解というものを気にする素振は微塵も感じられない 氏の一刀両断の物言いが、妙に心地よく感ずるのはなぜか。凝り固まった常識に大鉈を振りおろし ミシミシと破壊しながら、各500ページを超すボリュームの本を読み終えた後には、一筋のさわやかな風が吹き抜ける。

<古代遺跡考 及び遺跡見学のポイント>

一口に古代遺跡といっても多種多様、ピンキリである。ヨーロッパに限定すれば、その状態の良さやその数において、古代ローマ時代の遺跡が他の追随を許すことなくトップに君臨することは疑いようもない。シュリーマンが発見したトロイの遺跡と ミケーネの遺跡は それまでの認識を覆したという点においてインパクトと知名度はあるものの、実際に行って目にするのは 基礎や土台、あるいは門や城壁、お墓の一部で、現実が事前の期待を上回るとは言い難い状態だ。一般的な観光客にはその全体像がわかりにくく、十分な予備知識を仕入れて行くか、あるいはよっぽど想像力のある人でない限り、その全体像を把握するのは難しいであろう。むろん修復の手を加えさえすればいいのだろうが、クレタ島クノッソス宮殿のように修復を加え過ぎた揚句、コンクリートばかりで興ざめする結果にもなりかねず、賛否両論、そのバランスが難しいようである。いずれにしろ両遺跡共、眺めの良い丘の上にあるので 遠くの景色を眺めながら古代に心を馳せるのも悪くはない。

トロイの木馬で有名なトロイは現在のトルコの西の端に位置する。トルコの田舎だ。ミケーネもギリシャペロポネソス半島の農村地帯の丘の上にぽつんと佇む。古代遺跡には田園地帯が良く似合う。

さて、遺跡見学のポイントをいくつか。まず第一に、ポンペイの遺跡に代表されるような古代「都市」遺跡は、どこもそれなりに「歩く」ことが大前提としてある。見学を兼ねたウォーキング、ペルーのマチュピチュのように軽いハイキングと思った方がよい遺跡もある。山の斜面に沿って階段が続き、一年でも若いうちに訪れた方がよいと言われている。(同じ「山」でも遺跡ではないスイスのユングフラウカナディアンロッキーの方がよっぽど歩かない)そしてそれはエジプトやメキシコのプラミッドも同様だ。遺跡の規模にもよるが、1時間半~3時間程、マチュピチュのように途中WCのない遺跡もある。持参するバッグ類は リュックが至便 少なくとも斜めがけで両手の空くバックが無難、足元はスニーカー 少なくともウォーキングシューズ、起伏のあるマチュピチュのような遺跡は足首まであるトレッキングシューズだと更によい。むろん どこもバリアフリーではないし、屋外だから季節によっては雨具必携、またトルコのエフェソスやポンペイなどは大理石や石灰岩の道の照り返しが強いので、夏季は日傘が欲しくなる。個人的に折りたたみ傘ではなく、長傘をスーツケースに入れて持参することも多い。起伏のある遺跡には杖代わりに使えて重宝するし、本格的な雨が見込まれる場合も 長傘の方が何かと便利だ。(但し遺跡ではなく 市内観光で美術館に行くような場合 長傘は持ち込めず、クロークの出し入れに時間を要する場合があるので逆に不便)

 

 

アラスカ「アラスカ物語」新田次郎 

エスキモーたちがこのアラスカに住むようになって、何千年になるのか何万年になるのか彼は知らなかったが、その気も遠くなるような長い年月の間に彼等は、暗夜の航法を体験として取得し、彼等の血の中に伝えたのだと思った。それは渡り鳥が、天体の動きと、腹時計によって何千マイルも航行するのとよく似ていた。

・(犬橇について)犬と人のチームワークはエスキモーに関する限り芸術的でさえある。

エスキモーはほとんど野菜を食べなかったが、壊血病になるものはなかった。…生肉を食べるか、食べないかの差であった。

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探検家の植村直巳氏は今もマッキンリーの山の懐に抱かれ眠っているであろう。写真家の星野道夫氏はキャンプのテントを熊に襲われ急死した。しかし、彼らよりもっと前にアメリカの辺境の地・アラスカを訪れ数奇な運命を歩んだ明治の日本人男性がいた、その記録である。

「…危機に追い込まれた海岸エスキモーを引き連れて、ブルックス山脈を越え、アラスカ中原の、しかもインディアン地区に移住を試みて成功したフランク安田のことがごく少数の新聞に報道された。それはささやかな記事出会ったが、良識のあるアメリカ人はこれを驚異の眼で迎えた。20世紀初頭の奇蹟であると評し、フランク安田をジャパニーズ・モーゼと称えた人もいた」

無名の日本人が当地にもたらした恩恵ははかりしれない。強靭な意志と行動力で、多くのエスキモーだけではなく、米国沿岸警備船の乗組員たちの命をも救った。明治という時代の申し子というべき実直な一人の日本人の生きざまは、夜空にうごめくオーロラのごとく異彩を放っている。

また同時に、文中 詳細に記されたエスキモーの文化風習も興味深い。

「文明は人間の生産力を百倍にしたのは確かだが、管理がまずいために、『文明人』は動物以下の生活をしているのだ。一万年前の石器時代と同じ生活を今日もしているイヌイット族(エスキモー)と比べて、衣食住のすべての面で劣っているのだ」

ジャック・ロンドンは20世紀初頭のロンドン貧民街に潜入、執筆したルポルタージュどん底の人びと』で、未開の人々の一例としてイヌイットを比較対象にとりあげ、イーストロンドンの劣悪な環境でその日暮らしにあえぐ人々よりも イヌイットの方が恵まれていると弾劾した。イヌイットは既に一万年前にその土地に適した変える必要のない文化を形づくり、近代まで継承し続けた。しかしながら残念なことに 現代はそれを継承・維持するのが困難な時代である。フランク安田の時代に既にその兆候がみてとれる。彼らの伝統的乗り物である犬橇は 故障したり燃料がなくなればガラクタになりさがるスノーモービルに、伝統的な住居であるイグルーも暖房の効いた現代家屋にとって代わられて久しい。

*エスキモーとはインディアンの言葉で”生肉を食べる人”の意、現在はエスキモーの言葉で”人間”の意であるイヌイットと呼ばれる。

体当たりの潜入取材のルポルタージュ本田勝一著「カナダ・エスキモー」も、文句なしに面白い。

  <ノーザンライツ・オーロラ>

「アラスカはアメリカ合衆国に残された最後のフロンティアだったのだ」

  星野道夫著「ノーザンライツ

「アラスカはいつも、発見され、そして忘れられる」とは、アラスカで語られる諺みたいなものだ。1890年代のゴールドラッシュ以後 暫く忘れ去られていた土地は、油田開発で 再発見され、その後 米国人が夏の休暇を過ごすリゾートとして、更に近年 日本人観光客によってオーロラ見学の地として発見されたと言っていいかもしれない。新型コロナウイルスで海外旅行が寸断するまで、米国人のバカンス客と入れ替わるように、秋になると日本の航空会社がアンカレッジやフェアバンクスにチャーター便を飛ばし、日本人観光客が大挙してアラスカの地に降り立った。9月のアラスカは日照時間が除々に短くなり、オーロラ見学と同時に氷河クル―ズや国立公園など夏の観光もかろうじてできるぎりぎりの時期である。(アメリカ人にとってアラスカは、あくまでも夏の山のリゾートだ。従って冬場 都市部のホテル除き その多くは休業する、熊が冬眠するのと同じように。だから最初 日本人がオーロラを見る為シーズンオフにわざわざ飛行機に乗ってやってくると言っても 皆 冗談だと信じて疑わなかったらしい)フェアバンクス郊外にはチェナホットスプリングスという温泉もあって、オーロラ見学で冷えきった身体を温泉に入って温めるという、日本人観光客の欲求を刺激する絶妙な組み合わせが楽しめる。今は、フランク安田が苦労して開拓したビーバー村ですら、状況さえ許せばチェナホットスプリングスからセスナで行けてしまう時代だ。

「九月も半ばを過ぎると、フェアバンクスには晩秋の気配が漂ってくる」

「アラスカは厳寒期に入っていた。フェアバンクスはマイナス40度の日々が続いている。アラスカでも一番気温が下がるこの町の冬がぼくは好きだった」

「フェアバンクスの雪は、空から地上へと、梯子を伝うようにいつもまっすぐに降りてくる。雪の世界の美しさは、地上のあらゆるものを白いベールで包みこむ不思議さかもしれない」

  星野道夫著「ノーザンライツ

9月、葉が黄色一色に染まった樹々が続く、フェアバンクスからチェナホットスプリングスに至る道は夢のように美しかった。この時期の寒さは まだまだ序の口だ。想定内だ。厳寒期ともなるとアンカレッジと違い内陸のフェアバンクスではマイナス30~40度は普通なのだ。

さて、このオーロラはアラスカ以外でもカナダ・北欧及びアイスランド、ロシア等、オーロラベルトと呼ばれるドーナツ状の北極圏周辺で見学可能だ。自然相手ゆえ わざわざ遠くまででかけたところで必ず見れるとは限らない。例えば”マッキンリーの山”であれば 好天でさえあれば見ることが可能だが、オーロラの場合は例え晴れても オーロラという自然現象が発生しなければ見られない、つまりハードルは2段階、当然確率も下がる。行きさえすれば見ることができると安易に希望的観測で訪れる観光客が正直 大変多く、 がっくり肩を落として帰国の途につく人も決して少なくない。それが現実だ。

ではどこが確率的に最も適しているか? という話だが、まずは晴天率が高いこと、つまり雲が発生しにくい土地、その為には周囲に山がないのが良い。そうした点でカナダのイエローナイフ辺りが適していると言われることが多いが、経験上それは 誤りでない思われる。しかしノルウェーのトロムソも海風のせいか雲がどんどん流れることにより、 空模様が刻々と変わっていくことが多く、高確率であった。北欧はオーロラだけではなく 一般の観光と組み合わされていることが多い為 万が一オーロラが見えなくとも行った価値がゼロということはないが、他の場所ではハスキーサファリとか冬のアクティビティにでも参加しない限り 観るべきものはほぼない。アイスランドは島、つまり周囲を海に囲まれている為 アラスカやカナダほど気温は下がらないという点で、寒さが苦手という人には好都合と言える。但し北米方面は厳寒とはいえ 防寒具の貸し出し体制が整っている場合が多く、北欧はそうでないことが多い。

次に、いつ頃が適しているか? という話だが、オーロラそのものは一年中24時間出現したり 消えたりしている訳で、ただ日中は明るくて見えないだけのことである。従って暗い時間帯がければ長いほど、つまり厳寒期ほどオーロラチャンスは増す、ということは単純に言える。更にオーロラには周期的に当たり年があり、これはネットで調べればよい。また暗い夜空にとって月あかりの影響は想像以上で、新月と満月ではオーロラの見え方を大きく左右する。新月に合わせて日程を組めれば文句ない。

さあ ここまでくると 一体いつどこへオーロラを観に行ったらいいのか、皆目見当がつかなくなってしまったことであろう。「カリブーと風の行方は誰も知らない」という古いインディアンの言い伝えがあるそうだ。オーロラと風の行方は誰も知らない。縁があればきっと見れるし、なければ見れない、そんなものです。

 

 

 

 

ボストン 「緋文字」ホーソン

 「暗い色の紋地に、赤い文字A」

・…利己心がはたらく時は別として、人間性というものは憎むよりは愛する方を選ぶものだ。憎しみは、もとの敵意をたえず新たにかき立ててその変化を妨げなければ、除々にそっと愛情へと変りさえするものだ。

…憎しみと愛とは本当は同じものではあるかないか、興味深く観察し研究すべき問題である。

・私のように堕落した魂が、他の魂の罪のあがないに何にができましょう。ー汚れた魂に人の魂を清めることができましょう?

・私の魂は迷ってはいるが、それでも他の人たちのためになることをしたい!私は不実な番人で、わびしい見張りの仕事が終わるとき必ずもらえるのは死と不名誉なのだが、今の持ち場を捨てようとは思わない!

・…厳しく悲しい真理を言っておくなら、罪のために一度人間の魂の中についた裂け目人間である限りは決して元通りにはならないのだ。

・彼は自分の死に方を比喩として、無限に清浄な神の眼から見れば我々は一様に罪人なのだという強く悲しい教えを自分を讃える人たちの心に銘記させようとしたのだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

かつての米国には、どこまでもストイックで厳しい時代が存在した、その証左となる小説。17世紀のボストンを舞台に、えがかれているのは当時の問答無用の社会である。我々現代人がいつの間にか失ったもの、つまり深い罪の意識とか恥の概念というものをこれでもかと突きつけられて、なんだか息苦しくなってくる。そしてその息苦しさこそが、その後 米国社会が変貌していった原因なのであろう。

「…清教徒というのは最初信じられないほどの厳格な生活をしていました。…一回異性に対する過ちを犯した女性が一生涯、卑猥な女性として赤い印を付けられ続けるという話で、昔の社会はそうだったのです。男女の間違いを一度でも犯したら、もう一生涯立ち上がれない社会が、昔の清教徒の社会だったのです。それが緋文字という赤い印なのですが、その頃の非情な現実を表しているという話です。

…『緋文字』の時代のあのアメリカ人が、理想的な民主主義の憲法と理想的な民主主義の国家を一時期作ったわけです。しかし、その陰には犠牲になった人々もたくさんいた。それから段々と、やはりあれは酷いではないかということで、甘い社会になってきて今のアメリカに至ったわけです。そして道徳はないも等しくなりました」

  執行草舟著「現代の考察」

「…現代人が幼稚化しているのは、恥を忘れたからにほかなりません。…豊かな時代になると、多くの人が恥知らずになるのは、死を忘れるか、その悲哀を直視しなくなるからです。恥を重んずる社会と言えば、日本であれば江戸時代や明治時代、アメリカならばプロテスタンティズムが力を持っていた時代です。いずれも社会の表層は暗いでしょう。少なくとも、暗さを受容している。森鴎外の『阿部一族』やナタニエル・ホーソンの『緋文字』を読めば、生命つまり生きることの暗さがひしひしと感じられるはずです」

  執行草舟著「根源へ」

昔 テレビで「ネクラ」という言葉が流行り、「軽いノリの明るさ」がよしとされた風潮に対し、子供ながらに微妙な違和感と居心地の悪さを感じたのを今でも覚えている。今その答えがわかった。恐らくあの時期だったのだろう、日本人から恥の意識が急速に失われていったのは。

  <チャーミングシティ・ボストン>

「夏には並木がこの遊歩道の路面に、くっきりとした涼しい影を落とす。ボストンの夏は誰がなんと言おうとすばらしい季節だ。…ハロウィーンが終わると、このあたりの冬は有能な収税史のように無口に、そして確実にやってくる。川面を吹き抜ける風は砥ぎあげたばかりの鉈のように冷たく、鋭くなってくる。

ボストンはチャーミングな都市だ。規模は大きすぎもしないし、小さすぎもしない。歴史のある街だが、決して古くさいわけではない。過去と現在がうまく棲み分けられている。ニューヨークほどの活力や、文化の多様性や、エンターテインメントの豊富な選択肢はないし、サンフランシスコのようなスペクタキュラーな眺望も持たないが、そこにはボストンでしか見受けられない独自のたたずまいがあり、独自の文化がある。…ボストンでは、太陽の光り具合も他の場所とはどこか違うし、時間も特別な流れ方をしている。そこでは光はいくぶん偏りをもって光り、時間はいくぶん変則的に流れる…ように思える。

…言うまでもないことだけれど、あなたがボストンに来るなら、新鮮な魚介料理を食べに行くことは、チェックリストのかなり上段に置かれるべき項目になる」村上春樹著 「紀行文集・ラオスにいったい何があるというんですか?」より 「チャールズ川畔の小径」

氏にとってのボストンというのは住みやすく快適な街だったということが窺い知れる。そしてそれはきっと村上氏だけではなく多くの日本人に該当するであろう。実際のところ 東海岸の旅行ではニューヨークでもワシントンでもなくボストンが一番良かったという感想が多い。米国の中では稀な歴史的地区が存在し、風情ある落ち着いた街並みが好まれるのだろう。米国の中では最もヨーロッパ的な街で、治安も良好。そもそも米国の東海岸と西海岸では同じ国とは思えないほどにそのギャップは大きく、ロサンジェルスやラスベガスのように人間のサイズを無視した空間のお化けのような街は、カジノやテーマパーク目的の娯楽にはよくても寛げはしない。

もう一つボストンの魅力は村上氏も記しているとおり「食」にある。新鮮なシーフード、とりわけロブスターが有名な地域で、クラムチャウダーも美味。「食」の点でも日本人好みと言える。スイーツは別腹という人なら 甘い甘いボストンクリームパイもおすすめ。

チャールズ川の向こうケンブリッジに足を延ばせばアイビーリーグの一つ、アメリカ最古1636年創立の由緒あるハーバード大学も近い。キャンパスは観光客でも出入り自由。緑豊かな敷地を散策した後は、ありとあらゆる大学グッズをとりそろえたCOOPでのショッピングも楽しめる。

つまり、そう、現代ボストンに緋文字の時代の面影は ほぼない。せめて「緋文字」の本くらい読んでみてはいかがです?

 

 

アマゾン 「ヤノマミ」国分拓

・…「文明」にどっぷりと浸かった僕たちにとって、深い森での暮らしは快適とは程遠いものでもあった。最初は川の水さえ飲めなかった。…空腹の余り、動く度に立ちくらみがした。仕方なく休んでいると、屋根から巨大な虫が落ちてきた。…蛾、蠍、ゴキブリ、、コオロギ、蝙蝠。どれも大きく数えられないくらいたくさんいて、何よりも無遠慮だった。昼間に森を歩けば蚊やら虻やらダニやらに襲われた。数日で百か所以上を食われた。

・祝祭のための狩りを除けば、彼らは腹がすかない限り狩りには行かない。好きな時に眠り、腹が減ったら狩りに行く。起きて、食べて、出して、食糧がなければ森に入り、十分に足りていれば眠り続ける。「富」を貯め込まず、誇りもしない。男たちは、森で生きてゆくことの合理性のようなものを身に付けているようだった。

・ただ雨だけが降り続ける毎日。雨は時間の感覚を奪い、森の中で生きることの無力さを知らしめ、同時に無力であることを心地よくさせた。ここではまるで違う時間が流れているようだった。僕は時計を見ることが少なくなっていった。

・緊張を強いる「文明」社会から見ると、原初の森でも暮らしは、時に理想郷に見える。だが…甘いユートピアではなかった。文明社会によって理想化された原始共産的な共同体でもなかった。…一万年にわたって営々と続いてきた生と死だけがあった。思えば、僕たちの社会は死を遠ざける。だが、彼らは違う。…「死」が身近にあって、いつも「生」を支えていた。

・彼らが生まれ、殺し、死に、土に還っていく円環を思った。彼らは体験的に自分がその円環の一部であることを自覚しているように感じられた。たぶん、彼らを全てを受け入れている。…森で産まれ、森を食べ、森に食べられるという摂理も、自分たちがただそれだけの存在として森に在ることも、全てを受け入れていると思った。

・東京に戻ってからも、体調は悪化する一方だった。食欲がなかったし、食べるとすぐ吐いた。十㌔以上減った体重は中々元には戻らなかった。…外に出ると、よく転んだ。まっすぐ歩いているはずなのに壁に激突することもあった…なぜか夜尿症になった。

ヤノマミの世界には「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しのものがない。…ヤノマミは違う。…彼らは暴力性と無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。善悪や規範ではなく、ただ真理だけがある社会に生きる人間だ。そんな人間に直に触れた体験が僕の心をざわつかせ、何かを破壊したのだ。僕を律していた何かと百五十日間で見たものは余りにもかけ離れていたから、バランスが取れなくなってしまったようだった。…ダムや堤防が一気に決壊するみたいに、全てが壊れてしまいそうだった。

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「『ヤノマミ』とは彼らの言葉で『人間』という意味だ。彼らはブラジルとベネズエラに跨る深い森に生きる南米の先住民で…原初から続く伝統や風習を保つ極めて稀な部族だった。…アマゾンの奥の、また奥になる未踏のジャングルで暮らしていたため、虐殺や病原菌による絶滅から逃れることができたのだ」

著者はNHKドキュメンタリーの同居取材のため 2008年から翌年にかけて4回に分けて計150日をこのヤマノミ族と共に暮らし、その滞在の記録が本書である。カルチャーショックという軽い言葉ではとても言い尽くせない衝撃とも言える彼らの暮らしぶりが詳細に語られる。文句なしに面白い。上記に引用したようにアマゾンの奥地に150日の滞在の結果、著者は心身のバランスを崩してしまう。しかし「それは不安なことではあったけれども、けっして不快ではなかった」と、そう著者に言わしめるものは一体何であったのか、興味は尽きない。

人から聞いた話では、現代は「風の時代」なのだそうだ。ヤノマミ族の集落は彼らの言葉で「ワトリキ」と呼ばれ「風の地」という意味である。しかしアマゾンのジャングルのイメージは、風というよりはむしろ、ガルシア・マルケスの小説の世界にあるような混沌としたものだ。

同様に潜入取材したルポルタージュには、本田勝一著「カナダ・エスキモー」があるが、甲乙つけがたい、北の横綱と南の横綱という感じ。更に「極限の民族」は、このカナダ・エスキモーの他  ニューギニア、アラビアの遊牧民ルポルタージュを一冊にまとめたもので、本田氏は世界各地の秘境を潜入取材した強者だ。

   <アマゾン河>

「アマゾンに季節があるとすれば、雨季と乾季しかない。ブラジルでは雨季を冬、乾季を夏と呼ぶが、彼らには季節に関する特別な呼び方はないようだった。五十を超える雨の名前があるのに季節の名前はない」

アマゾン河を訪れたのは一度きり、かなり昔のことだ。印象深かった点は、滞在中とにかく蒸し暑くてげんなりさせられたことと、アマゾン河クルーズでピラニア釣りをした後 釣ったピラニアを船内で調理して昼食に食べたこと、以上。

リオのカーニバルも確かに一見の価値はあったけれども、自分にはアマゾン河クルーズの方がその何倍も楽しめた。 いかんせんブラジルは遠い。着くまでに機内食4回、アマゾン(マナウス)までなら5回、ブロイラーの気持ちがわかるような気になってくるというものだ。

<To be Continued>

 

ルーマニア・トランシルヴァニア地方「吸血鬼ドラキュラ」ブラム・ストーカー

・地獄には地獄の価値あり。物を掘り下げて追及していく。この本能のかげに何かがあるとすれば、あとで厳密にそれを追求していくのが有益だろう。

・…「自然の妙」が、なにか不感性の糸で織った袋をからだにかぶせ、それがなければ接触によって害をこうむる凶事を、それで守っているという仕組みのようだ。…おそらくそこには、われわれ人間が感知する以上の、なにか深い原因があるはずだからである。

・きみが信じられないことを信ずるのだ。あるアメリカ人が、信念というものを『人間が真実でないと知っているものをわれわれに信じさせる力』だといった。…われわれはすべからくとらわれない心を持って、そしてどんな小さな事実でも、それをつちかい育てて、大きな真理の芽に伸ばして行け。小さな石ころも汽車を止める。

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『吸血鬼ドラキュラ』を世界的に認知させるにいたった生みの親とも言うべき怪奇小説。ニンニクや十字架に弱いとか、昼間は眠って 夜間に人間の生き血を求めて活動するなどという誰もが認識しているドラキュラ像が、あますことなくえがかれている。話の舞台はルーマニア中央部の山に囲まれたトランシルヴァニア地方からロンドンへ。数名の登場人物の日記、あるいは手紙や電報だけで構成された500ページを超す本書は 途中間延びすることもなく一気に読ませる、怪奇小説の古典とも言うべき一冊だ。全体になんとも言えない妖気が漂う小説だが、これは翻訳者(平井呈一氏)の力量によるところが大きいと思われる。

訳者の文末の解説によると、吸血鬼信仰というのはかなり古い時代にまで遡り、キリスト教が確立される以前のギリシャ時代の記録にそれとおぼしきものが残っているとのこと。かつては神に背いて破門された者や自殺者などが、死後 吸血鬼になると信じられていたそうである。死者が人間の生き血を吸うことによって未来永劫 死者として(?)生きながらえるというのは、古来から人間が抱いていた不老不死の欲求に基づく信仰と考えられなくもない。氏は次のように述べている。

「人間本来の欲求である永世思想は、これが中世の科学と結びつくと、錬金術師たちの不老不死の探求となり、これが、神ならぬ悪魔と結びつくと、魔女の呪術などを通じて、死~回生~永世~血~力…、という観念から、そこに吸血鬼という信仰が派生的に生まれたものと考えられます」

作者ブラム・ストーカーはアイルランド人・ダブリンの出身で、名門トリニティ・カレッジ在学中から地元新聞に劇評執筆をよせていた。1897年この本が出版された当時 大きな話題をさらい、英国社会を震撼させたそうだ。エジソンが映画を発明したのが1895年、当時はまだ今のような興業的な映画もなく、「読書」がまだまだ幅をきかせていた時代なのだ。その後 映画産業の発展によって、こうしたホラー・スリラーものは特に「読む」から「観る」へと、お株を奪われたことは言うまでもない。それにしても こうした話しの舞台として今も昔も英国より相応しい場所は見つからないだろう。

   <ヨーロッパの僻地はどこ?>

ヨーロッパの僻地と言うと、西はアイルランド、東はルーマニアを思い浮かべる。なぜかと問われても返答に困る。ただ漠然とした印象なのだ。各国どこでも都市部から1~2時間も車で走れば農村地帯の田舎や山間部が現れるものだが、必ずしも田舎=僻地という訳ではない。(そういう意味で日本は稀な国かもしれない。新幹線乗って民家が途切れることなく続くので東京は大きいなと思っている内に名古屋に着いてしまったという…日本を訪れた外国人の笑い話しがある)

恐らくそれは例え田舎であろうと都市部と変わらない現代的生活が垣間見れるせいかもしれない。一方、アイルランドルーマニアは地理的な点はもちろんのこと、その度合いがが低いというか、どこかっぽ昔っぽいノスタルジックな雰囲気に満ちている。ルーマニアの田舎で農民が未だに馬車に乗って街道を普通に移動しているの目撃したのは2014年のことだ。

小説のなかでドラキュ伯爵の城があるトランシルヴァニア地方は、「森の彼方の国」の意、実際ルーマニア中央に連なるカルパチア山脈に三方を囲まれた森の多い地域である。目立った観光資源のないルーマニアにおいて唯一と言ってもよい認知度の高い観光スポットがこのドラキュラ伯爵のモデルとなった人物ゆかりの館と郊外にある古城だ。辺鄙な場所にあって本来なら観光客も余り訪れないような寒村でも観光バスが立ち寄り土産屋が繁盛する。それはその背景に名作ドン・キホーテの存在があるスペイン ラ・マンチャ地方と酷似している。

「ヨーロッパのうちでも、文明にもっとも遠い、世間に知られていない地方である。…今年の夏、私たちは打ちそろってトランシルヴァニアに旅行をし、われわれにとっては今もむかしも生々しい恐怖の記憶の残っている、あのなつかしい土地を一回りしてきた。…あの城だけは、ありし日のままに、荒涼とした山の上に、巍然としてそびえ立っていた」

色々行き尽くしてもう行くところが見つからないとか、人と同じはイヤとか、大勢の観光客を避けたいとかいう人にはオススメなのがルーマニア。ツアーの場合 ルーマニア単独のものは稀で、ヨーグルトで有名な隣国ブルガリアと一緒に訪れるという企画が大半。地球の歩き方などガイドブックの類も大抵 2ヶ国一緒になっている。正直 集客は多いとは言い難く、催行が確実なのはブルガリアのバラ祭りの時期だが、この祭り、実はかなりローカルな祭りで事前のイメージと現実のギャップが大きい上、日本人にだけ有名な為 ハワイかと見まがうほど一時的に日本人で溢れかえる。長蛇の列になるWCにもうんざりで(特に女性は酷い)正直 この時期には行きたくないかな。。。