至福の読書・魅惑の世界旅行

読書の海・世界の空  海外添乗歴30年  元添乗員の読書&海外旅行案内

米国「心臓を貫かれて」 村上春樹訳

・…僕らはみんな、僕らが生まれるずっと前に起こった何か、知ることを許されなかったその何かに対しての代償を支払ってきたのだ。結局のところおそらくそれは、誰一人その核心に手を触れることのできない謎として残ることだろう。

・「おい坊主、死んだ人を踏みつけにしてはならん」と老人は指を突き出すようにして僕に言った。「断じてならん。いいか、おまえは死者の残したものの上に生きているんだ。」

・おまえはうちの一家が救済されるための最後の望みなんだよ。

・人の敵は、その家族の内にあるであろう。「マタイ伝」

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 殺人犯の家族自らが語る壮絶な鎮魂の書ともいうべきノンフィクション。目には見えずとも明らかに存在するであろう”何ものか”に翻弄され彷徨う一家、3世代にわたる家系の辿った道筋に思わず息をのみ、悲痛に満ちた子供たちの会話に胸が痛む。

「これじゃまるで地獄だ。家庭そのもが地獄なんだ」

「俺達の家族に起こったことで、口にするのが辛くないことがあるか」

 過酷な家庭環境の中で、子供たちには逃げ場がない。しかし、生まれた家庭は宿命として受け入れざるを得ないのが、厳しい現実であるなら、”POINT OF NO RETURN”人生において引き返せないある一線があるなら、ギリギリのところで踏みとどまることが いかに重要かつ困難であるかということを突きつけられる。

 家系の因縁とか呪いなどという安直なことばでは言い尽くせない、毛細血管のように入り組んだ負の連鎖を執筆したのは、唯一平穏な人生を歩んでいるであろう印象の犯人の実弟である。4人の兄弟のうち二人は、背負う十字架が重すぎて人生の荒波に呑まれ溺れて逝った。その内の一人が連続殺人犯の兄である。自ら極刑を望んだ結果、本のタイトル通り銃殺刑となり、当時の米国社会にセンセーショナルな話題を提供した。享年36歳、誰もが認める聡明で絵の才能に秀でた人物だった。死刑執行により全てに終止符が打たれたかに思えたのも束の間、その後 驚愕の秘密が明かされることにより、残された家族が災いの一因を知る場面は、余りに切ない。血筋とか血脈というものの重さを思い知る。

「…今日われわれが対峙すべき『不都合な真実』は、ときに残酷で知りたくもない現実であるかもしれない。遺伝による支配とは、どこか不愉快で危険な香りのする主張ではないか。…遺伝的なサイコパス傾向が大きければ大きいほど、環境からの影響はあまり意味をなさなくなる」

  原田隆之著「サイコパスの真実」

 時代を遡れば誰にも無数の先祖がおり、それぞれの人生があった。中には救済を必要とする魂も少なからず存在するであろう。例え一人でも欠けたなら 今自分はこの世に存在していなかったかもしれず、その奇跡の末端に今我々は生きている(ざっと200年前 江戸時代後期辺りまで遡れば、直系だけで見積もって数百人、親戚も含めればその何倍もの膨大な数の先祖がいるらしい)

「人間は、やっぱり、二代も三代も前からのトータルで考えなければならないし、二代も三代もの長い時間をかけてつくられてくるものなんです」

  色川武大著「うらおもて人生録」

 犯人の母親はじめ100人に及ぶインタビューを元にジャーナリストが執筆した「死刑執行人の歌」が先に出版され、全米ベストセラーとなり ピュリッツァー賞を受賞、若き日のトミー・リー・ジョーンズ主演で映像化もされている。

 家系の歴史を辿った本は他にも複数執筆され いずれも興味深い内容ではあるが、とにかく“重量感”という点においてはこの「心臓を貫かれて」が群を抜いているし、村上氏の脂がのった感のある翻訳もすこぶるよい。

 佐藤愛子著「血脈」も同様に家系の歴史を遡った本。父は作家の佐藤紅録、兄は詩人のサトウハチローという紛れもない文筆家との血筋だが、破天荒で非凡な点も血筋なのだろうか。

 三浦義一の孫、三浦柳著「残心抄」も大変な力作で、“黒幕”とか”右翼”と呼ばれた人物像がまんまと覆される。身内のみが知りうるエピソードや本人の残した歌がそれを証明している。

 閑話休題、江戸時代の人相占いの大家・水野南北の伝記「だまってすわれば」で解釈される「血脈」の意を紹介したい。

「天の太陽の“気”を父の血脈として、地の太陰の水は潮となり、潮は陰中に陽火を受けて母の血となる。ゆえに、これらを合して父母の血脈となる。…血は陰で、脈は陽。…人間が生まれる時は太陽の気により(満ちてくる潮とともに)誕生し、その逆に、死んでいく時は太陰の気(ひき潮)につれ去られて息をひきとっていく。」

人間の生死が、陰陽血脈の道理から離れることはなく、従って懼るべきは天、敬うべきは父母、慎むべきは自分自身であるとの事。

     <アメリカという国>

 本の中ではユタ州モルモン教が、重要なポイントとして登場する。翻訳者である村上春樹氏はあとがきでユタについて次のように述べている。

「…うまく言えないのだけれど、なんだか不思議な場所だ。そこにはまだ、開拓時代から続いた伝説と呪縛が生きている。少なくとも僕にはそう感じられた。ユタはほかのアメリカの土地とは、いろんな意味において、ずいぶん違っているように思える。そこでは、そこにしかない力学が作用している。」

 また旅行記では

「ユタは風景が美しく、風土も興味深いところだったけれど…酒が飲めなくて弱った」

と短く感想を語っている(ユタ州モルモン教の聖地で、モルモン教イスラム教同様にアルコール禁止)更にチャップリンも自伝で次のように振り返っている。

「…呆れるほどだだっぴろい市、それが太陽の熱気の中で、蜃気楼のようにゆらめいているのだった。果てしない平原を横断してやっとたどり着いた人間にして、はじめて思いつくような広い大通りが、何本も走っていた。町自体がちょうどモルモン教徒のように超然として厳しかった」

  「チャップリン自伝」

ソルトレーク・シティの町は、ほかのアメリカの町と同じく、巨大な基盤の目のようにできている。ヴィクトル・ユーゴ―が『レ・ミゼラブル』のなかで書いた〈陰鬱なほどに悲しい直角〉に〈冷たく長い直線〉が交わっているのである。…このアメリカという奇妙な国では、人間性という自然なものよりも制度とか都市計画といった人工的な物が大切にされ、町も家も〈四角四面〉につくられるのだ」

  ヴェルヌ著「八十日間世界一周

 人間の縮尺を無視した空間のお化けのようなラスベガスも、大自然がつくりあげた壮大なグランドキャニオンも、そしてディズニーランドの夢の世界も全てアメリカ、一口にアメリカと言っても、気候風土はもちろんのこと、あらゆる点において大きく異なる。そして肌で感じる空気は、実際に足を運んでみないことにはわからない。米国のように西と東で3時間もの時差があるような広い国土を持つ国は、2回位に分けて訪れることができれば理想的だ。

 東海岸3都市(ボストン・ニューヨーク・ワシントン)美術館巡りを満喫できるコース。米国が想像した以上に膨大な数の印象派絵画を所有しているという事実に驚かされる。

 西海岸ならラスベガスを起点にグランドキャニオンやモニュメントバレー、アンテロープキャニオン等を巡るゴールデンサークルがおすすめ。人工の街・不夜城のラスベガスと自然美の両極を満喫できるコース。

 あるいはニューヨーク連泊。美術館・遊覧船・展望台・グルメにショッピング、そして夜のミュージカル…一ヶ所に腰を据えながら、それでいて多岐にわたる楽しみ方が出来るコース。尚 現地で後悔しないためには、例え少々割高でもミッドタウンの好立地のホテルを選択することを強くオススメします、本当に。

 

ロンドン「フレディ・マーキュリーと私」  ジム・ハットン

・フレディはどれほど辛くても、だれにも愚痴をこぼさなかったし、どんな同情も求めようとしなかった。これは彼自身の闘いであって、ほかのだれのものでもない。勝ち目がどんどんなくなっていっても、彼は勇敢に立ち向かうことをやめなかった。

・彼がスイスへ旅に出たのは、静かなところでいくつか最後の決断を下すためだった。この時彼は重大な決意をした。治療をやめて死ぬ道を選ぼうを決めたのである。彼は自分がやろうとしていることを僕たちの誰にも知らせるまいと思った。病との戦いは終わった。…それ以上もがくのをやめて静かに立ち去る心構えが彼にはできていたのだ。

・彼が痛み止め以外ほとんどの薬をやめたのはその2週間後のことだった。…フレディは医者の言うことに逆らってそう決めたのだった。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 2018年の映画「ボヘミアン・ラプソディー」の大ヒットにより、脚光を浴びたクイーンのフロントマン、フレディ・マーキュリー。「自分は単なるスターではなく、伝説の人となる」という生前の本人の発言は、没後27年を経て現実のものとなった。

 彼が自分の死とどう向き合ったか、身近にいた人でなければわからない内幕が語られる。著者である最後の恋人も既にこの世を去って久しい。2人の冥福を心よりお祈り申し上げる。

 実際のところ フレディ・マーキュリー関連本は他にも多数出版されている。例えばチーム・クイーンともいうべき 元ローディーが出版した「クイーンの真実」。タイトルに反しスタッフ達のばか騒ぎ主体の回顧録で、フレディ・マーキュリーやクイーンのメンバーの話は僅かでありながら、身近にいたスタッフだけが知りうる希少なエピソードはファンにとっては興味深く、彼らのモーレツな仕事ぶりに驚かされる。そもそもクイーンは1970年~1986年の17年の間にライブツアー、単発ライブやギグを含め世界各地で700本を超える演奏をこなし、中には1日2公演という日すらある。その合間に楽曲を作り、レコーディングを繰り返していたのだ。

「彼らは常に価値あるものを提供し、最高のライブを行ない、言ったことは必ず実行するバンドだった。批評家達に対して公然と抗い続けた。…高いレベルを維持していくためには、固い決意や信念、忍耐力も必要とされる。クイーンにはそれがあった。フレディには特に有り余るほどあったのだ。…私はフレディのことを自分の上司として、あるいは有名なバンドのシンガーとしてだけではなく、人間としても尊敬していた。彼はとても知的で、頭の回転が速く、ユーモアのセンスがあり、当然ながら驚くほど創造性に富んでいた。…常に彼にはオーラがあった。…多くのロック・スターや有名人に会ったが、フレディが放っていたような存在感を持っていた人は誰もいなかった、と断言出来る。それなのに実際のフレディは人目につかぬことを好む、内気な人だったんだ」

前述の元ローディーの言葉である。また音楽ジャーナリストが執筆した「孤独な道化」のなかで関係者が次のように語っている。

「フレディと知り合って勉強になったよ。彼は何に対しても全力投球なんだ。ある種の粘り強さというか、ひたむきさというか、向上心があった」

むろん本人のインタビュー集でも、映像やマスコミの作り上げたイメージとは異なる別の一面をかいま見ることができる。

「僕らはこだわりがとても強い。中途半端は許さないし、僕は自分にもかなり厳しい。そこに妥協はない。ちょっとでも違うと思う曲があれば、僕はすぐに捨てる。‥僕は仕事に突き動かされているし、この身体が許す限り続けるつもりでいる。僕が最も称賛するのは完全なる献身を必要とする物事、1日12時間労働、眠らない夜、だね」

「もしもこのすべてが明日で終わったとしても、僕はやっぱり自分のやり方でまた初めからやる。‥明日、すべてが終わることもありうる。でもそれに対する恐れはない。不安定な人生ではあるけれど、僕はそういうのが好きなんだと思う。少しばかり危険なのがいいんだ。‥もう一度初めからやらないとならなくなったら?やるよ、もちろん」

「‥それに、自分に何が起きるのかわかっちゃったらすごく退屈だろうし、そうなったら、きっと今後の人生をすべて、それを避けるために費やすことになると思うから」

「自分の中に「ペースを落とせ、さもないと燃え尽きるぞ!」と言っている声はあるんだけど、止まれない。‥僕は自分のすべてをぶつけていく、これからもずっと。これが僕の一番得意とすることなんだ」

「‥それでもやっぱり決断は自分で下すしかない。とどのつまり、これまでの過ちはすべて、これまでの言い訳すべて僕のこの身にのしかかっている、他人のせいにはできない」

また大の日本好きとして知られたフレディ・マーキュリーは、次のような嬉しいコメントも残している。

「日本を廻るのは毎回楽しかった。‥ライフスタイルも、人も、芸術も、素晴らしい!‥組織もうっとりするほどしっかりしていたし、とにかく何もかもが最高だった。‥日本のお客さんの調和ぶりは見事だよ、参加の仕方という意味でね。‥彼らは自分たちが歌う番だと直感的に気づいてくれた。‥僕がわざわざ言わなくても、自分の役割に自然と気づいてくれていた」

彼は自分がエイズであることをマスコミに向け公表したその翌日に帰らぬ人となった。享年45才、90年代初期 エイズがまだ不治の病として恐れられていた頃だ。その後HIVワクチンの開発が進み長期生存が可能となったのは、彼が亡くなった5年後のことである。そして今、我々は新たに登場したウイルスに怯え右往左往している。

「…わたしたちの数が増え、密集して暮らせば暮らすほど…ウイルスは効率よく広がることができる。それがエイズウイルスであり、肝炎ウイルスである。…新種の病気を広めているのは人間なのだということを、肝に銘じておいてほしい。…ウイルスの世界ではわたしたち人間が侵略者なのである」

 ジョーゼフB.マコーミック&スーザン・フィッシャー著「レベル4・致死性ウイルス」

フレディ・マーキュリーは生前のインタビューで次のように答えている。

「70まで生きたいとか、そういう思いは一切ない。…例え明日死んだとしても、屁とも思わない。僕は生きた。本当に全部やり尽くしたんだ」

「天国に行くかって?ノー、行きたくないね。地獄のほうがずっといい。考えてごらんよ、君がそこでどんなに面白い人たちと会うことになるかさ」

フレディ・マーキュリー、最強だ。

     <ロンドン今昔>

 私ごとであるが、1991年の秋から1年間ロンドンで暮らした。エイズの合併症が元でフレディ・マーキュリーが亡くなったのも1991年の秋、つまり私がロンドンで暮らし始めて間もなくのことだ。しかし当時の私はフレディ・マーキュリーはもちろん、クイーンにも全く興味はなく、大きな話題をさらったであろう彼の死亡記事とかも全く記憶にない。しかしながら最近になって知り得た事実に少し心がざわついた。ロンドンに着いた当初 正式な住まいが決まる迄、とりあえずは会社が手配済みのB&Bに腰を落ち着けた。暫くしてそこを出て住み始めたフラットが、彼の屋敷から徒歩数分の近さだったこと、その後引っ越した隣駅のフラットもまた同様に数分の徒歩圏だったということ。そしてそれから何年も経て私は毎日のようにクイーンの音楽を聴きながら過ごす日々が暫く続いた。細くて遠い奇妙な縁を感じながら。

 私的な話はさておき 90年代前半のロンドンというのは、景気も悪く活気もなく時代に取り残されたような街で、特に食事は底辺を彷徨うがごとく酷かった。スーパーの冷凍食品の陳列の長さを見た時のショックにも似た驚きを今でもよく覚えている(むろん生鮮食品の貧弱な品揃えにも)

 しかし現在のロンドンは大きく変貌を遂げた。最も変わった点は何といっても「食」である。かつてのロンドンは街を歩いていても目につくのはパブばかり、気軽にお茶できる飲食店が極めて少なく、実に不便な街だった。コーヒーチェーンとかもほぼ皆無、数少ないカフェでコーヒーを注文するとインスタントということも珍しくなかった。また一部の高級店を除けば美味しいレストランというものが壊滅的に少なく、まともなものを食べようと思ったら、中華かインド料理という時代。しかしながらその後ジェイミー・オリバーという当時若くてイケメンの料理家が登場した頃から除々に変化がみられ、ほぼフレンチに近いモダン・ブリテッシュというジャンルが確立したのもその頃だ。あろうことか現在の英国は首都ロンドンに限っていえば、食事のレベルは決して悪くない。つまり現在のロンドンは観光だけではなく、食も満喫できる街へと変身を遂げたのだ。

 かつての古色蒼然とした街も「食」と同様、2000年ミレニアムの頃からテムズ河沿いに巨大観覧車のロンドン・アイはじめ、その後のオリンピック開催等ヨーロッパのどこよりも大きく変貌したといって差し支えない。歴史とモダンが共存する街ロンドン。

 

 

サハラ砂漠「わたしは猫になりたかった」西江雅之

 ソマリアの砂漠では、朝、目覚めると「ああ生きている」と本気で思った。それから次に「今日は何か食べ物が口に入るかな」と考えた。そして、日中はわずかばかりの移動があり、一日が過ぎ、夜が来て、「今日も生き延びたぞ」と自分の生を確認した。そのような日々を二十日も三十日も過ごすうちに、自分はひとつの生き物のすぎないということを、実感するようになった。…たった一人で過ごす夜など、砂漠の中で最も恐ろしいものは人間の気配だった。人が間近にいると感じれば、そこには死が迫っているのがよくわかった。頼るべきも人間、恐れるべきも人間。毎日毎日、そんな状況の中で自分の命をつなぐ努力をする。このような状況は、東京での生活では書物の中に見出すことは出来ても実感としては得られない。…ふとした時に、東京での自分の周囲の世界が、途方もなく巨大な生け簀に見えてくる。そこでは目に見えぬ飼い主がわたしたちの命の保証をしてくれている。しかし、その安全の代償として、人々はその飼い主の都合通りに自らの人生を弄ばれている。…それはある種の恐ろしさとなって私に付きまとった。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 引用が長くなったが元々は「ヒトかサルかと問われても」という題名で出版、文庫本出版を機に題名改め「裸足の文化人類学者半世紀」という副題がつけられている。   著者のことを初めて知ったのは十数年前の全日空の機内誌の「コンニチハ蝦蟇屋敷のご主人いらっしゃいますか?」 という記事だった。 記事のタイトル通り只者ではない、分類不能なユニークな学者さんの奇想天外な半世紀は読み出したら止まらない。一歩間違えば奇人変人と誤解されかねないエピソード多数、その多彩なエピソードの数々は普通の日本人の半世紀十人分を束にしてかかってもかなわない。例えば公費留学(彼は大変なエリートなのだ)でロサンゼルス滞在の時期は黒人暴動の激しい時代で、当時そうした地区に一般市民は殆ど足を踏み入れなかったそうだ…当然だ。そんな状況にも我関せず、氏はその地区のリーダーと仲良くなり、スワヒリ語を教えに行ったそうだ。とにかく何事にも執着がなく突き抜けた感のある現代のグローバル仙人みたいな人だ。

 エピソードだけを繋げば相当な自由人と錯覚しそうだが、30歳を過ぎてから30年間余り、病に倒れた奥様の看病と育児に明け暮れ、奥様の治療費を稼ぐために生きてきたという、責任を全うし尽くした人でもある。

 氏は本のあとがきで次のように語っている。

「この世に1センチ四方の土地もなく、家もなく、二、三カ月先のお金の蓄えもなく、さら定職もなしで、長い間、よく生きてこれたものだと我ながら思う。…とにかく勝手なことをしてきているので、はっきりとした夢を持つこと、他人の何倍もの努力をすることが必要なのである。努力というのは面白い。努力して何かが完成するという保証など何もない。物事は頑張れば出来るなどということではないからである。ただ、目標に向かって絶え間なく進む。そこに楽しみが見出せる。…”今を生きる” 獣や鳥や虫のようで、生とはそのようなものだ。動物は、勝手気ままに生きているのではない。単なる言葉としてではなくて、覚悟というものが常に身体そのものとなっている」

 2015年に他界されたとのこと、生前にお会いしお話しを聞いてみたかったと心から思う。ご冥福をお祈りします。

      <サハラ砂漠

 星の王子様の主人公はサハラ砂漠に不時着して星の王子様と出会った。不測の事態で不時着でもしない限り、一体何用あって砂漠へ? 西江氏のように無事生還できるとも限らない。日本人なら鳥取砂丘にでも行ってお茶を濁すというのが関の山だろう。

 砂漠というのは厳密には年間の降水量が250ミリ以下の土地を指す。サラサラの砂丘がどこまでも続く”すな砂漠”のイメージが強いが、実際には”すな砂漠”よりも、岩や石がゴロゴロとした荒涼な風景が続く”岩石砂漠”もしくは”礫砂漠”が占める割合の方が断然高い。

 観光客でも”すな砂漠”に足を踏み入れることができる国の一つとしてモロッコがあげられる。モロッコを横切るアトラス山脈を越えればサハラ砂漠は目前、広大なサハラ砂漠の20%程度しかない”すな砂漠”を訪れることが可能である。まだ星空瞬く時分にホテルを出発、4WDとラクダと徒歩で日の出を目指す。砂に足を取られながら苦労して砂丘に上り、風の音を聞きながら日の出を待つひとときは格別だ。明るくなるにつれ どこからともなくわさわさと現れては勝手に手を取り、頼んでもいないのに砂丘を上る手伝いをする地元モロッコ人へのチップをお忘れなく。

 チュニジアでも砂漠観光は可能だが、日の出ではなく日没に合わせて夕日の砂漠見学がどちらかと言うと一般的で、モロッコの方がよりディープな砂漠体験が楽しめる。その他 エジプト南部でヌビア砂漠、中近東ドバイ等でも砂漠の端っこに触れることができる(因みに日本は地形的に水田がなくなると一気に砂漠化が進む地形だそうだ…瑞穂の国ニッポンに生れた日本人はお米を食べよう)

「砂漠に出ると、絶え間なく吹いてくる風の音と、動物のひづめの音だけになった。…砂漠はとても大きく、地平線はとても遠いので、人は自分を小さく感じ、黙っているべきだと思うようになるんだ」

  パウロ・コエーリョ著「アルケミスト

「ただ砂の海の砂粒のようにしか、自分という存在など感じられない。人間の思い上がりがまったく通じない世界のひろがり。‥砂漠に、車ででかけるようになった。何のためでもない。遮るもののない空の真下で、ただ砂粒のような自分という存在を確かめなおすためだ」

  長田弘著「アメリカの61の風景」

「…サハラ砂漠は、夜になると、全体が一度に消えてしまって、広大な死の領土を形成するのだから。…この純白の地表は、ただ星々の前にだけ、幾千万年以来捧げられていた、澄んだ空の下にひろげられたしみ一つないテーブルクロス。…そしてぼくは、自分の身の上を考えてみた。砂漠の中に迷いこんで叛徒の襲撃に脅やかされながら、砂と星のあいだで、素裸で、自分の生活の中心からあまりにも多くの沈黙に隔てられている自分のいまの身の上を。…いまこうしてここにいるぼくは、世界じゅうに何一つ所有しないぼくだった。ぼくは、砂と星とのあいだに方途を失って、ただわずかに呼吸することの心地よさ以外には何ものも意識しない一個の人間でしかなかった…」

  サン・テグジュペリ著「人間の土地」

「日本にいたら、何か自分でミスしても命を落とすような恐怖感はない。ところが、熱砂の極限地では、一挙手一投足が自分の身にふりかかってくるという緊張感がある。緊張感がふっと緩む解放感を味わえるときもある。その連続が極めて非日常的だ。日本での常識や衛生観念がまったく通用しない世界。…確かに強烈なパンチを食らった旅だった」

  沢田研二著「熱砂に生きる~沢田研二250日間中東の旅」

「砂漠は化石になった海のようだ。揺れぬ波。動かぬ流れ」  

  西江雅之著「旅は風まかせ」

「砂漠は死そのもののように静かで優しい「…ある時、散らばったラクダの白い骨を見た。茶色の地面と青い空の中で、白は鮮やかに目に映った。前衛的な作品を思い起こさせた。まさに砂漠は見る者の心を惹きつける果てしない画廊である」

  西江雅之著「東京のラクダ」

「われわれは砂漠を約300キロ渡ってきた。激甚な疲労をともなうものだった。水は塩辛く、またはしばしば、まったくなかった。われわれは犬を、ろばを、らくだを食った」

  アンドレ・マルロー編「ナポレオン自伝」

 

 

シシリー島「最後の詩集」長田弘

     「シシリアン・ブルー」

 三千年の歴史だって一日に如かない。

朝から夕方までそして夜まで。

人は、一日一日を生きて、

いつかいなくなるのだ。

ただ、青い世界を

後にのこして。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 詩人・故長田弘氏との出会いは、学生時代に遡る。その当時から雑誌クロワッサンで定期的に本特集が組まれており、今は亡き女流作家の森遥子さんが推薦していたのが、氏の散文詩集「深呼吸の必要」であった。あれから長い年月を経て、数えきれない数の本が自分の本棚を通り過ぎていったが、氏の本はいずれもまだ手元に残っている、恐らくこの先もずっと。詩集のみならず紀行文やエッセイなども数多く出版されているが、ささくれだった心持ちが 森の奥にひっそりと鎮座する湖の湖面のように穏やかを取り戻すことのできる、いずれも秀逸な本ばかり。深呼吸を必要とする現代人にまずはこの「深呼吸の必要」を必読の書としてお勧めしたい。

 残念ながら、氏は2015年に他界された。全てを察していたかのように 他界する直前に分厚い全詩集が、そして死後間もなく青い表紙が印象的なこの「最後の詩集」が出版されたのである。旅先で海を眺めながらページをめくりたくなる1冊、その冒頭の詩が「シシリアン・ブルー」である。

  かつてイタリアを訪れたゲーテは、シチリアを絶賛し 次のような言葉を残している。

シチリアなしのイタリアというものは、われわれの心中に何らの表象をも作らない。シチリアにこそすべてに対する鍵があるのだ」

 シシリー島を100字以内で説明するなら ”ブーツの形をしたイタリア半島のつま先に、僅か3キロのメッシーナ海峡を隔てて地中海のほぼ中央に鎮座する地中海最大の、しかし四国より少し小さな島” とでもいえばよいだろうか。

 チュニジアのボン岬迄およそ150キロ、首都ローマへ行くよりアフリカの方が断然近いという立地も相まって、入れ替わり立ち替わり外国人支配が長く続いた。ギリシャカルタゴ古代ローマビザンチン、ノルマン、ヨーロッパ王家と目まぐるしく通り過ぎる人々を見守り続けた樹齢千年を超すというオリーブの老木が、ギリシャ神殿の傍らで今も無言のままじっと佇む。かつてギリシャ人が植民都市を築いた為 古代ローマの遺跡よりもむしろ古代ギリシャの遺跡が印象的な島なのである。

 その先に目をやれば、シエスタから目覚めたばかりのようにぼんやりと滲む水平線、海も空も三千年の歴史を飲み込み、どこまでもひたすらに青い。

「皺一つないおおきな青い絹のシーツを、日の光のなかに見えない両手で思いきって敷きのべたような海だ。地中海だ」

 長田弘著「失われた時代」

 本の中でまだこの先もずっと生き続ける氏へ、次の詩を贈ろう。

「オリーブの間を吹き抜ける風は、野から野へと渡るように気ままに

汝の胸の中に入って来た。その風は地球を外衣のように包み

我々の目には贈り物のように、空を青く染める

生きていたときには、白い海に似た生命の呼吸が波打っていた

太陽に照らされた白い海の愛の波間に

今や死の安息が訪れ、平穏のうちに眠っているのだ」

  ミゲール・デ・ウナムーノ著「 ベラスケスのキリスト」

     <絶景のタオルミーナ

「あそこの海は青い。こんな話を聞いただけで、その“青さ”を確かめずにはいられなくなる」  西江雅之著「東京のラクダ」

こんな人にお勧めなのがシシリー島である。

 シシリー島を含むイタリア南部は風光明美な場所がいくつもあり、甲乙つけがたい。しかしながら かつて「グランブルー」という映画に登場したタオルミーナは格別だ。海抜250メートル近くの斜面にへばりつくように形成された町、眼下に丸く弧を描くタオルミーナ湾、冬であれば山頂に雪を被るエトナ火山が背後にそびえる。

 ある時 絶景レストランでの夕食から戻ったご夫婦が、興奮冷めやらぬ様子で 熱く感想を語られたのが強く印象に残る。エトナ火山山頂から花火のごとく赤く燃ゆる溶岩噴火の様子を一望にできたとの事だった。

 因みにタオルミーナはヨーロッパでも有数のリゾートではあるが、ハワイのようなリゾートでではないので念のため。高級リゾート故 物価は高め、斜面という地形の制約上 立地の良いホテルも限られる。リゾートという場所柄 個人旅行でのんびりゆとりをもった滞在が好ましいが、日数や予算等諸事情がそれを許さない場合 残された選択肢は自ずとパッケージツアーになってしまう。但しツアーの多くは2連泊といいながら最初の晩は夕食を食べて寝るだけ、翌日観光とフリータイム半日ずつで実質1日の滞在が大半なのでそのつもりで。

 また日本からの直行便はもちろんなく 往路のロスバゲ(経由地でのスーツケースの積み残し)に注意、過去には手元に届く迄1週間以上要したケースもあった。何しろそこはイタリア、油断大敵 甘く見てはいけないのです。

 

 

 

 

魅惑の世界旅行 アンソロジー

・旅というものは縁の糸によって導かれて行かれる

  東山魁夷

 ・人は旅をする 人は旅をして ついにわが家へ戻る 人は生きる 人は生きて ついには大地へ戻る

  イギリスの諺

・旅行によって若者を育てる

  フランスの諺

・旅とは原点に返ること

  チベットの諺

・どんなに長い旅路も最初の一歩から始まる

  中国の諺

 ・いま信じられないような偶然のおかげで、僕にはいまわかった。僕は旅をする運命にあるのだ、と。

  チェ・ゲバラ

・俺は旅をして、俺の脳に寄せ集められた呪縛を振り払わねばならなかった。

  A.ランボー

・旅はわたくしにとって精神の若返りの泉である  先へ!もっと先へ行こう!旅だけが元気をつけ、悲しみを追いはらってくれる。

  アンデルセン

・誰でも旅行をするについては、何を見るべきか、何が自分に大切か、を知っていなければならない。

  「ゲーテとの対話」

・矢も楯も堪まらないほど、外国を旅行したい欲望に駆られた時代がひと頃あった。日常親しいものがなにもかも一年中私をいらいらさせたものだった。もし脱出の機会をついに失し、魂の底から恋い憧れていた風景を見ることができなかったなら、おそらく私は悶死していたかもしれない。

  「ヘンリ・ライフロフトの私記」

 

 ・スーツケースの旅の支度をつめこむときのおもいは、誰でも、新しい期待にふくれているでしょう。いえ、そうばかりでもありません。

…旅はいつもたのしいとはきまっていません。生きている日々が、常に昨日への告別と考えるとき、人生はそれじしんを一つの旅とみることができます。

…一晩寝ると翌日、パリへついているような贅沢な空の旅では、第一に距離感がなく、旅につきもののノスタルジアが発生する間暇もないといったわけです。

…こころをいやすために人は、すぐ旅を考えます。自分を追いつめていた環境をはなれて、客観的にじぶんをながめる余裕をとり戻すために、旅の淋しさと、孤独ほど効果のあるものはありますまい。

…旅だけが僕らの歪み、にごった生活を新しいものにする奇蹟を知っているようです。

…だが、旅は、立ち去るその瞬間だけがいのちで、世界中、どこへ行ってみたって、ほんとうに住みよいところはない。せめて、心のなかにある遠いふるさとくらいなものでしょう。

  金子光晴

 

 ・旅はどんなに私に生々としたもの、新しいもの、自由なもの、まことなものを与えたであろうか。旅に出さえすると、私はいつも本当の私となった。

  田山花袋

・旅におしえられたのは、瞬間という、取り返しのつかない時間のもつ意味です。ひとの人生の時間は、無辺の風景のなかの、本当は、人生の瞬間のことなのだと。

旅は到着することとはちがう。旅は、旅をしているという感覚のよろこびなのだ。

旅というのは終わってからが…旅から持ちかえってきた経験が肝心なんだ。

  長田弘

 

 ・<西江雅之流・旅の極意>

   当たり前の世界に勘をとぎすませること。

 夢と現実を区別でせずに、夢を語ること。

 最良の学習法とは、他人に教えること。 

 他人は宝。

 出発は小さな包みをつかみ、体を持ち上げ、歩き出すこと。

 名前だけから推測して食べ物を注文することは、ハズレが多い。

 自分は一つの生き物にすぎない。

 馬鹿同然ことに、馬鹿げた努力でかかわってみること。

 獣や鳥や虫のように“今を生きる”

・不規則に波立ちながら刻々と表情を変えている起伏、それが世界だ。その表面には、もともと仕切りなどついてはいないし、地の果てなどという境界線も存在しない。無限に連続するノッペラボウである。…考えてみれば“場所”というのは土や石ころで出来た物としての地面なのではなくて、自分の中に置き去りにされている時間や空間の破片のことなのではないかと、思い当たる。…旅人は帰るべきところを持っている

  西江雅之著「旅人からの便り」あとがき

・…そんな時、わたしは自分が旅に出ているのだと、、フッと感じて身が引き締る。自分の中の生と死が一瞬、同時に体内をかすめていくのである 

  西江雅之著「旅は風まかせ」あとがき

・時々、どこかで何かが自分を呼ぶ。よく聞いてみれば、それは自分自身の声である。その声に急き立てられ、その誘いにのって、よく旅に出たものだ。…旅への憧れ。それは我に返れという自分自身の叫び声なのではないだろうか 

  西江雅之「東京のらくだ」あとがき

・”旅”は、何よりも、”道中”が主役である。古典文学を見ても、旅の話を支えているのは、目的地に至るまでの道中で出くわすことになる数々の予期せぬ出来事だ。…”旅行”の場合は、目的地までの行程は保証されている。…”ツアー”では、出発点と目的地との往復が予め保障されている。…昔「人生は旅である」と言った。しかし、現代の日本人の人生は、ツアーに似ているとも思えてくる。

  西江雅之著「異郷日記」

 

 ・月日は百代の過客にして、生きかふ年も又旅人也

  松尾芭蕉(5月16日は旅の日 松尾芭蕉奥の細道への一歩を踏み出した日)

 

・幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

  若山牧水

 ・空の旅の場合、ジェット機が離陸する瞬間に味わう開放感は格別です。…大きな深呼吸をし、肩の力を抜き、満たされた気持ちになります。

  ドミニック・ローホー                                                                            

・すべて私たちの探求の終わりは出発の地に辿り着くこと そしてその地を初めて知るのだ。

  T.S.エリオット

 

・旅は歩みおわった所から始めねばならぬ。

…そうしなければならないのなら、それで良いのだ。信ずることができなければ耐えれば良いのだ。…何ものにもより掛ろうとしないことが、やはり出発の標べであるとすれば、淡い雪の中に足を取られて歩くのが旅人の感傷だ。…私の心を満たすものは常に私を振返らぬものだった。

  安部公房

…生まれて初めて体験する長い一人旅だった。一人で知らない土地を旅していると、ただ呼吸をし、風景を眺めているだけで、自分が少しずつ大人になっていくような気がしたものだ。

…何度か行ったことのある場所だって、行くたびに「へえ、こんなものがあったんだ!」という驚きが必ずあります。それが旅行というものです。旅っていいものです。疲れることも、がっかりすることもあるけれど、そこにか必ず何かがあります。さあ、あなたも腰をあげてどこかに出かけて下さい。

  村上春樹

 

『夏の爽やかな夕、ほそ草をふみしだき、

ちくちくと穂麦の先で手をつつかれ、小路をゆこう。

夢みがちに踏む足の、一あしごとの新鮮さ。

帽子はなし。ふく風に髪をなぶらせて。

 話もしない。ものも考えない。だが、

僕のこのこころの底から、汲めどもつきないものが湧きあがる。

さあ ゆこう どこまでも ボヘミアンのように

自然とつれ立って、―恋人づれのように胸をはずませ…』

  A.ランボー

 

 

 

至福の読書 アンソロジー

・一冊の本は世界を動かす力をもっている。

  「本の話」岩波写真文庫

 

・宇宙(それを図書館と呼ぶ人びともいる)

  ホルヘ・ルイス・ボルヘス

 

・基礎は必ずや読書になければならない。一般的原理は書物から得られなければならないが、それは必ず実生活の検証を必要とする。会話では決して体系が得られない。

  ジョンソン博士の言葉

 

・君や誰かのすべての思考のために…言葉は造られてきたのである。

「わたし」というただひとつの言葉のなかに、何と歴史が幾重にもたたみ込まれていることだろう!…これらのことばは、過去のすべてがつくり上げた肉体である。

  ホイットマン

 

・もっとも高度な文明においても読書はやはり最大の喜びである。一度その満足を知った者は不幸の中でもその満足を得る。

  エマーソン

 

・熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。

  ショーペンハウエル

 

・本を読んでいて、むつかしいところにぶつかっても、私はやきもきしたりはしない。一突き、二突き、あとはほっておく。

  モンテーニュ

 

・書物はそれが書かれたとおなじくじっくりと慎みぶかく読まれなければならない。

  ソーロー

 

・書物は人の一生で所有できる最良の財産であり、人に不滅の魂をもたらす。

  ヴァルラーム・シャラーモフ

 

・地図帳のページをめくっていくと、世界の空を飛んでいるような気がしてくる。…広大な海や森や山脈や川や街、すべての国をそんな小さなスペースに詰め込むのは、本にしかできない奇跡だ。

 地球上のすべての国が、どれだけ柵を作ろうと構わない。だって、本を開けばどんな柵も飛び越えられるのだから。…本を開けることは汽車に乗ってバケーションに出かけるようなもの。

 小説は、人生に足りないものを与えてくれる。

  アントニオ・G・イトゥルベ著「アウシュビッツの図書係」

 

 ・読書には生活のテンポをゆるやかにさせる作用があります。テレビや映画、ネットの動画などで素早く感動が得られる現代において、テンポを遅くすることは結構難しいことかもしれません。

  ドミニック・ローホー

 

・古くても、シェイクスピアは英語の古典です。なにごとも、まず古いものから読んでいくとうのが順序です。

  野口英世渡辺淳一著「遠き落日」)

 

・読書ということは、人間の創造したもっとも価値の高い快楽の一つだと思う。

  山本周五郎

 

 ・(古本屋は)本たちの墓場だという。けれども、そこへ足を踏みいれれば、なん十年来、棚に立ちつくしていた本たちは、いっせいに振りむいて、まだ死んでいない表情を示すのである。そして私を無縁の書生と知れば、再びもとに復するけれど、たまには互いに求めていたとわかって、百年の歳月をとびこえることもあるのである。 

 本は買い与えることはできても読ませることはできない。あのおびただしい本のなかから一冊が選ばれるのは、「縁」 による。

  山本夏彦

 

・読書が、われわれの人生に対する意義は、一口で言ったら結局、「心の食物」 という言葉がもっともよく当たると思うのです。

 真の良書というものは、これを読むものに対して、その人の人生行路を決定していく意義を持つ。

  森信三

 

  ・読書は究極のリサイクルです。…すぐれた思想というのは、読書によって繰り返してリサイクルされていく。ところが20世紀はオリジナリティを新しさに求め続けた あまり、リサイクル出来ないものばかり生んだ。リサイクルしても価値が減らないもの、読んでリサイクルできる本が古典です。

 読書というのは、振り子です。たとえ古い本であっても、過去に、過ぎた時代のほうに深く振れたぶんだけ、未来に深く振れてゆくのが、読書のちからです。…新しい本だけでなく、いまさらに古い本も読もうと、あえて言挙げするゆえんです。

 読書は読書という習慣です。「習慣は、単に状態であるのみにならず、素質であり能力である」。…習慣論(著ラヴェッソン)

 本を読むことをカッコイイと感じる美意識が日々に育ってはじめて、読書は社会を支えるちからを持ちます。読書には社会の体温計みたいなところがあって、社会に元気のないときは、必ず読書のちからが社会的に落ちている。人を、社会を元気づける不思議なちからが、読書というささやかな行為には潜んでいます。 

 本の世界が貧しいとき、人心は衰弱します。 

 本は、道具とはちがう。古本であれ新本であれ、もしその本を読んでいないかぎりは、その本はつねに「新しい本」なのである。

 言葉は国家より大きい。

  長田弘

 

・…本の読み方というのは、人の生き方と同じである。この世界にひとつとして同じ人の生き方はなく、ひとつとして同じ本の読み方はない。それはある意味では孤独な厳しい作業でもある ~ 生きることも、読むことも。…気に入った本について、思いを同じくする誰かと心ゆくまで語り合えることは、人生のもっとも大きな喜びのひとつである。

  村上春樹

 

・秀れた文学は常に、永遠に向かう憧れを描いている。…現代社会は憧れを失いつつあるように思う。その兆しの一つが文学の衰退ではないだろうか。

 今の世の中、江戸時代などに比べたら簡単に本が手に入ります。けれども、簡単に手に入るようになればなるほど、人は本を読まなくなりました。やはり、人間の生命は辛苦を必要としている一つの証左かもしれません。本が手に入らなかった時代、多くの青年が飯も食わずに本を読んでいたのです。 

 読書とは精神を養うものと言っている。活字を読むことが読書ではないのだ。読書とは、心の共感を求めるものに他ならない。…真の読書は、受け継ぐものを読まなければならない。精神ということである。

 …本を読まないという人を私は何人も知っていますが、ものすごく傲慢です。読む必要がないわけですから。「自分は本を読む必要がない」ということは「自分は頭がいいから」「自分の見方、考え方は正しいから」と言っているようなものです。そして、そういうことにさえ気付かないほど傲慢な人間に現代人はなっているのです。

  執行草舟 

 

・…読書だけが子供を成長させるのですが、それはどういう意味かというと、何事も信念が大切ということなのです。読書をしなければ、知識は増えても永遠に子供のままだということになる。だから読書ということは、苦悩させる、思索させるという意味です。読書だけが人間をとして子供を成長させるということを信念として持って頂きたい。…魂の未熟な子供が大人になったのが、今の現代人だと思うわけです。だからこれは何をやっても通じない。軽薄短小な生き方とTVなどを中心とした限りない堕ち方です。…魂が未熟なまま大人になってしまったので、ああいうものしか面白いと思わない。今TVでやっている番組などは…昔の子供の悪ふざけです。…魂が未熟なら本当に面白いので、どうしようもない。…日本というのは幼稚なことを悪いことだと思っていない社会なので、…読書をして幼稚な状態から抜けることを目指してほしいのです。

  執行草舟著「日本の美学Ⅰ」

 

・人間の本当の食糧は、書物である。…我々にも魂があり、書物にも魂がある。その魂の真の触れ合いが読書に他ならない。字を読むことは、読書ではない。

 …真の生命力とは、精神を育むことでしか得られない。…我々は、真の生命力が、秀れた書物からしか与えられないことを知らなければならない。

 …肉体を維持するのに必要な物質が普通の食物であるならば、精神にとっての食物は本なのである。

 …人間だけが、不幸に耐え、それを生きる力に変換することが出来る。不幸に弱い人間は、読書が足りないのだ。

  執行草舟著「憧れの思想」