ロンドン「フレディ・マーキュリーと私」 ジム・ハットン
・フレディはどれほど辛くても、だれにも愚痴をこぼさなかったし、どんな同情も求めようとしなかった。これは彼自身の闘いであって、ほかのだれのものでもない。勝ち目がどんどんなくなっていっても、彼は勇敢に立ち向かうことをやめなかった。
・彼がスイスへ旅に出たのは、静かなところでいくつか最後の決断を下すためだった。この時彼は重大な決意をした。治療をやめて死ぬ道を選ぼうを決めたのである。彼は自分がやろうとしていることを僕たちの誰にも知らせるまいと思った。病との戦いは終わった。…それ以上もがくのをやめて静かに立ち去る心構えが彼にはできていたのだ。
・彼が痛み止め以外ほとんどの薬をやめたのはその2週間後のことだった。…フレディは医者の言うことに逆らってそう決めたのだった。
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2018年の映画「ボヘミアン・ラプソディー」の大ヒットにより、脚光を浴びたクイーンのフロントマン、フレディ・マーキュリー。「自分は単なるスターではなく、伝説の人となる」という生前の本人の発言は、没後27年を経て現実のものとなった。
彼が自分の死とどう向き合ったか、身近にいた人でなければわからない内幕が語られる。著者である最後の恋人も既にこの世を去って久しい。2人の冥福を心よりお祈り申し上げる。
実際のところ フレディ・マーキュリー関連本は他にも多数出版されている。例えばチーム・クイーンともいうべき 元ローディーが出版した「クイーンの真実」。タイトルに反しスタッフ達のばか騒ぎ主体の回顧録で、フレディ・マーキュリーやクイーンのメンバーの話は僅かでありながら、身近にいたスタッフだけが知りうる希少なエピソードはファンにとっては興味深く、彼らのモーレツな仕事ぶりに驚かされる。そもそもクイーンは1970年~1986年の17年の間にライブツアー、単発ライブやギグを含め世界各地で700本を超える演奏をこなし、中には1日2公演という日すらある。その合間に楽曲を作り、レコーディングを繰り返していたのだ。
「彼らは常に価値あるものを提供し、最高のライブを行ない、言ったことは必ず実行するバンドだった。批評家達に対して公然と抗い続けた。…高いレベルを維持していくためには、固い決意や信念、忍耐力も必要とされる。クイーンにはそれがあった。フレディには特に有り余るほどあったのだ。…私はフレディのことを自分の上司として、あるいは有名なバンドのシンガーとしてだけではなく、人間としても尊敬していた。彼はとても知的で、頭の回転が速く、ユーモアのセンスがあり、当然ながら驚くほど創造性に富んでいた。…常に彼にはオーラがあった。…多くのロック・スターや有名人に会ったが、フレディが放っていたような存在感を持っていた人は誰もいなかった、と断言出来る。それなのに実際のフレディは人目につかぬことを好む、内気な人だったんだ」
前述の元ローディーの言葉である。また音楽ジャーナリストが執筆した「孤独な道化」のなかで関係者が次のように語っている。
「フレディと知り合って勉強になったよ。彼は何に対しても全力投球なんだ。ある種の粘り強さというか、ひたむきさというか、向上心があった」
むろん本人のインタビュー集でも、映像やマスコミの作り上げたイメージとは異なる別の一面をかいま見ることができる。
「僕らはこだわりがとても強い。中途半端は許さないし、僕は自分にもかなり厳しい。そこに妥協はない。ちょっとでも違うと思う曲があれば、僕はすぐに捨てる。‥僕は仕事に突き動かされているし、この身体が許す限り続けるつもりでいる。僕が最も称賛するのは完全なる献身を必要とする物事、1日12時間労働、眠らない夜、だね」
「もしもこのすべてが明日で終わったとしても、僕はやっぱり自分のやり方でまた初めからやる。‥明日、すべてが終わることもありうる。でもそれに対する恐れはない。不安定な人生ではあるけれど、僕はそういうのが好きなんだと思う。少しばかり危険なのがいいんだ。‥もう一度初めからやらないとならなくなったら?やるよ、もちろん」
「‥それに、自分に何が起きるのかわかっちゃったらすごく退屈だろうし、そうなったら、きっと今後の人生をすべて、それを避けるために費やすことになると思うから」
「自分の中に「ペースを落とせ、さもないと燃え尽きるぞ!」と言っている声はあるんだけど、止まれない。‥僕は自分のすべてをぶつけていく、これからもずっと。これが僕の一番得意とすることなんだ」
「‥それでもやっぱり決断は自分で下すしかない。とどのつまり、これまでの過ちはすべて、これまでの言い訳すべて僕のこの身にのしかかっている、他人のせいにはできない」
また大の日本好きとして知られたフレディ・マーキュリーは、次のような嬉しいコメントも残している。
「日本を廻るのは毎回楽しかった。‥ライフスタイルも、人も、芸術も、素晴らしい!‥組織もうっとりするほどしっかりしていたし、とにかく何もかもが最高だった。‥日本のお客さんの調和ぶりは見事だよ、参加の仕方という意味でね。‥彼らは自分たちが歌う番だと直感的に気づいてくれた。‥僕がわざわざ言わなくても、自分の役割に自然と気づいてくれていた」
彼は自分がエイズであることをマスコミに向け公表したその翌日に帰らぬ人となった。享年45才、90年代初期 エイズがまだ不治の病として恐れられていた頃だ。その後HIVワクチンの開発が進み長期生存が可能となったのは、彼が亡くなった5年後のことである。そして今、我々は新たに登場したウイルスに怯え右往左往している。
「…わたしたちの数が増え、密集して暮らせば暮らすほど…ウイルスは効率よく広がることができる。それがエイズウイルスであり、肝炎ウイルスである。…新種の病気を広めているのは人間なのだということを、肝に銘じておいてほしい。…ウイルスの世界ではわたしたち人間が侵略者なのである」
ジョーゼフB.マコーミック&スーザン・フィッシャー著「レベル4・致死性ウイルス」
フレディ・マーキュリーは生前のインタビューで次のように答えている。
「70まで生きたいとか、そういう思いは一切ない。…例え明日死んだとしても、屁とも思わない。僕は生きた。本当に全部やり尽くしたんだ」
「天国に行くかって?ノー、行きたくないね。地獄のほうがずっといい。考えてごらんよ、君がそこでどんなに面白い人たちと会うことになるかさ」
フレディ・マーキュリー、最強だ。
<ロンドン今昔>
私ごとであるが、1991年の秋から1年間ロンドンで暮らした。エイズの合併症が元でフレディ・マーキュリーが亡くなったのも1991年の秋、つまり私がロンドンで暮らし始めて間もなくのことだ。しかし当時の私はフレディ・マーキュリーはもちろん、クイーンにも全く興味はなく、大きな話題をさらったであろう彼の死亡記事とかも全く記憶にない。しかしながら最近になって知り得た事実に少し心がざわついた。ロンドンに着いた当初 正式な住まいが決まる迄、とりあえずは会社が手配済みのB&Bに腰を落ち着けた。暫くしてそこを出て住み始めたフラットが、彼の屋敷から徒歩数分の近さだったこと、その後引っ越した隣駅のフラットもまた同様に数分の徒歩圏だったということ。そしてそれから何年も経て私は毎日のようにクイーンの音楽を聴きながら過ごす日々が暫く続いた。細くて遠い奇妙な縁を感じながら。
私的な話はさておき 90年代前半のロンドンというのは、景気も悪く活気もなく時代に取り残されたような街で、特に食事は底辺を彷徨うがごとく酷かった。スーパーの冷凍食品の陳列の長さを見た時のショックにも似た驚きを今でもよく覚えている(むろん生鮮食品の貧弱な品揃えにも)
しかし現在のロンドンは大きく変貌を遂げた。最も変わった点は何といっても「食」である。かつてのロンドンは街を歩いていても目につくのはパブばかり、気軽にお茶できる飲食店が極めて少なく、実に不便な街だった。コーヒーチェーンとかもほぼ皆無、数少ないカフェでコーヒーを注文するとインスタントということも珍しくなかった。また一部の高級店を除けば美味しいレストランというものが壊滅的に少なく、まともなものを食べようと思ったら、中華かインド料理という時代。しかしながらその後ジェイミー・オリバーという当時若くてイケメンの料理家が登場した頃から除々に変化がみられ、ほぼフレンチに近いモダン・ブリテッシュというジャンルが確立したのもその頃だ。あろうことか現在の英国は首都ロンドンに限っていえば、食事のレベルは決して悪くない。つまり現在のロンドンは観光だけではなく、食も満喫できる街へと変身を遂げたのだ。
かつての古色蒼然とした街も「食」と同様、2000年ミレニアムの頃からテムズ河沿いに巨大観覧車のロンドン・アイはじめ、その後のオリンピック開催等ヨーロッパのどこよりも大きく変貌したといって差し支えない。歴史とモダンが共存する街ロンドン。