至福の読書・魅惑の世界旅行

読書の海・世界の空  海外添乗歴30年  元添乗員の読書&海外旅行案内

インド「メメント・モリ」 藤原新也

「死を想え」

・極楽とは苦と苦の間に 一瞬垣間見えるもの

・一生、懸命(いっしょう、いのちをかける)

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」

というコメントの添えられた大胆な写真に思わず息をのむ。その多くはインドで撮影された.。ロングセラーの写真集。戦後 急速に死が遠のいた日本、死を昔話の中に閉じ込め蓋をしたかのような日本で写真家は問いかけ、語る。

「いのち、が見えない。死ぬことも見えない。本当の死が見えないと本当の生も生きられない」と。

タイトルの「MEMENT-MORI 死を想え」とは

キリスト教信仰に基づく、覚悟を決めた人生を歩ませるための中世思想です。常に死を意識して生きろということです。

中世の根本思想は「メメント・モリ」(死を想え)です。これは死を神に委ねよという意味も含んでいる。自分の命は神から与えられたものであり、いつ神が奪うかもわからない。その奪われるときのことをいつも考えながら、片時この世を生きるのが人生だという考え方です」

  執行草舟著 「根源へ」

 新型コロナウイルスの拡大につれ、右往左往しながら怯えるしかなかった人類。しかし中世のヨーロッパではペストの大流行によって、実に人口の1/4近くが死亡したと言われており、会田雄次著「アーロン収容所」に次のような記述がある。

「…中世末のヨーロッパの黒死病大流行のとき、看病するものも葬るものもいなくなって病人が自分で自分の墓穴を掘り、その穴に倒れこんで死んでいった…」 

英軍捕虜としてビルマでの強制労働の日々の中、自分達も同じような状況に陥るのではないかと危惧する場面のことばである。精神的にも現実的にも死がすぐ傍にひかえていた時代の方が実は圧倒的に長く、現代社会こそが珍しいのかもしれない。

「緊張を強いる「文明」社会から見ると、原初の森での暮らしは、時に理想郷に見える。だが、ワトリキ(アマゾン奥地の集落の名)は甘いユートピアではなかった。文明社会によって理想化された原始共産的な共同体でもなかった。…ただ「生と死」だけがあった。一万年にわたって営々と続いてきた、生と死だけがあった。…「死」が身近にあって、いつも「生」を支えていた。思えば、僕たちの社会は死を遠ざける」

  国分拓著「ヤノマミ」

 

「心賢き者は生ける者のために悲しまず、

はたまた死せる者のためにも悲しむことなし。

すべて生くるものは永遠に生く。

消えゆくはただ外殻のみ、

ただ滅ぶべきもののみなり。

精霊に終わりなし。永遠にして不死なり」

  バガヴァット・ギーターより

 

「死ぬとは風の中に裸で立ち

陽の中に熔けることではないか。

呼吸をとめるとは 絶間ない潮の動きからこれを放ち、

何のさまたげもなく昇らせ、ひろがらせ、

神を求めるようにさせることではないか」

 ハリール・ジブラーン

 

「この世の生が終わるとき

あなたもわたしもいるのなら

このいのちを、果物の皮のように放り捨てて わたしは永遠をえらびます」

  エミリー・ディキンソン詩集

   

     <インド狂想曲>

「インドは手ごわい国だ。理由はいろいろあるが、簡単にいえば、『よくわかんない』からである」 椎名誠

「 『インドという国は…』 などと、とても簡単には表現できません」 妹尾河童

 インドに対する外国人がもつ印象は概ね似かよって、それでいて一言でうまく伝える言葉が見つからない。ねっとり湿った空気、ガンジス河のほとりで沐浴する人々、その対岸で焼かれ流される死体(ヒンズー教徒に基本お墓はない)死が日常の一片として間近に存在し、訪れる誰もがその光景に怯まざるを得ず、心ざわめく。長い間じっと息を潜め、この時を待っていたかのようなある種の感情が、むくむくとわいては消えてを繰り返す。人生とは、死とは、人間はどこから来てどこへ行くのか、そんなことを考えるにインド以外に最良の土地があるだろうか、ふと哲学するにもってこいの国、インド。

インド人の現地ガイド氏曰く

「インドでは動物園に行く必要ないよ、町中が動物園と大して変わらないからね」と。…サル、山羊、観光用ゾウ、そして聖なる牛が道の真ん中に悠々と居座り、それをを避けて通り過ぎる車と人の波。その傍らで死んでいるのか寝ているのか見分けのつかない脱力しきった犬やヒトが横たわる。人口14億、主要言語だけでも15以上の多民族、仏教発祥の地なのに今はなぜだかヒンズー教、ヨガ発祥の地、ゼロの概念を生み出した国…奥が深い。そのディープさ加減にかけては、2位以下を大きく引き離しトップを独走している(次点は多分モロッコあたり…)

カルカッタの空港で、荷物を受け取ったら、すでにカメラのストロボと目覚まし時計が盗まれていた。…下痢も、インド体験の一つ!」 妹尾河童

 実際のところ極端に好き嫌いが分かれる国だ。一人旅しつつ沈没するある種の若者たちがいる一方、どう逆立ちしてもムリ、絶対行きたくないという女性も少なからず存在する。水道水は歯磨きでも下痢の懸念あり。基本毎日カレー(もちろん日本風ではなくインド風)帰国の頃には見るのも勘弁という人あり。昔列車で移動の際、ほんの一瞬目を離した隙に昼食用のお弁当の入った紙袋は消え去り、昼食を食べ損ねた(インドに限らず)所持品は決して離すべからず。

 最後にインドの苛酷な現実を突きつけられる本2冊

・プーラン・デヴィ著「女盗賊プーラン上/下」

20世紀中、最も波乱万丈な人生をおくったに違いないインド人女性の自叙伝。壮絶過ぎて逆に現実味に欠け、フィクションのように思えてしまうほど。

・ドミニク・ラピエール著「歓喜の街カルカッタ 上/下」 

スラムに暮らす不可触民のドキュメンタリー。著者は「パリは燃えているか」で有名なフランス人ジャーナリスト。

 

「…印度の旅は多彩を極めていたが、そのうち、アジャンタ洞窟で過したある午後の深遠な体験と、ベナレスの魂をゆるがすような景観とを述べるだけで十分であろう。その二つの土地で、…人生にとって何かきわめて重要きわめて本質的なものを見たのである。…ベナレスは、聖地のなかの聖地であり、ヒンズー教徒たちのエルサレムである」

  三島由紀夫著「暁の寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナイル河クルーズ「ナイルに死す」アガサ・クリスティ

・…ナイル河の黒光りした岩々をじっと見つめた。月の光に照らし出されたこれらの岩は、みる者に何かしら幻想的な感じを与えた。それはあたかも有史以前の怪物が身体の半分を水の中にかくして横たわっているかのようであった。

・「とても見事な月だわ。ところがひとたび太陽がでてくると、あの月は見えなくなってしまうんです。あたしたちの問題がこれと同じです」

・「…悪魔が入ってくるからです。…入ってきて、あなたの心の中で巣をつくります。しばらくしたら、絶対に追いだせなくなってしまうのです」

・岩肌に彫りこまれた神殿が朝の陽光をさんさんと浴びていた。崖の自然石を彫って作られた4つの巨大な人像は、こうして何千年となくナイル河を見おろし、何千年となく、昇る朝日を見つめてきたのである。

・人生は虚しい。ちょっぴり、恋と

ちょっぴり、憎しみと そして、おはよう。

人生は短い。 ちょっぴり、希望と

ちょっぴり、夢と  そして、おやすみ。

・「恋って時には恐ろしいものにもなりますねえ」 「だからこそ、有名な恋はほとんど悲劇に終わっているのです」

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 タイトルからも想像がつくようにエジプト旅行、とりわけナイル河クルーズに持参するにもってこいのミステリー。小説の舞台はピラミッドが残るカイロ・ギザ地区とかではなく、エジプト南部アスワンからアブシンベルにかけて、オリエント急行殺人事件の舞台が列車内なら こちらは船内、ナイル川クルーズ船内が事件現場となる。オリエント急行殺人事件のような ”おお~” といった感じのトリックはなく、比較的前半から犯人の想像もつきやすい一方、複雑にこみいった人間模様がポイント。船内フロアマップと宿泊者名入りの船室見取図がないと多少頭が混乱してくるので、読むより観る方が楽しめる感もある。むろん「ナイル殺人事件」のタイトルで映画化されている。

・「この冬はエジプトに行こうと思ってる。素晴らしい気候だと言うからね。ロンドンの霧、灰色の空、たえず降る雨の単調さから逃れるのも悪くないね」

・「この世に生まれてから一度はエジプトに行きたいと思ってたのよ。ナイル川とか、ピラミッド、砂漠…」

・「しんから暖かい国。のんびりした、黄金色の砂漠、ナイル河」

 小説の中でアガサ・クリスティが登場人物たちに語らせていることは、恐らく大半の英国人の思いと合致するであろう。冬の地中海は雨が多く 陰鬱な英国の冬と大差ないが、その地中海を更に南へもう少し飛ぶだけで別世界が待ちうけているのだから。実際クリスマスから新年にかけてのエジプトはじめモロッコチュニジアなど北アフリカは、英国人やドイツ人などを中心に各国ヨーロッパ人で溢れ返っている。ヨーロッパ人にとっての北アフリカというのは、日本人にとってのバンコク、バリ島辺りのように比較的気軽に異国情緒が楽しめる場所なのだ。

 いずれにしろ各国語に訳されているこの小説が、観光国エジプトに大きく貢献したことは間違いない。小説に登場するアスワンのカタラクトホテルは、アガサ・クリスティが訪れた当時と同じ優雅な佇まいのまま 今も無言でナイル河を見おろしている。

  <エジプト・ナイル河クルーズ>

 エジプト、とりわけ南部は暴力的な暑さとなる夏を避けて訪れるのが賢明。また3月頃は砂嵐が発生する可能性もあり、11~2月頃がベストシーズンと思われる。砂漠気候のため寒暖の差は想像以上に大きく、冬の朝晩はウルトラライトダウン程度の防寒具は必携。できるだけ平穏無事な旅を望むのであればイスラム教のラマダン、つまり断食の時期を避けた方が無難ではある。ラマダンにはイスラム暦使用のため クリスマスのように毎年決まった期間ではなく、毎年11日ずつ早まり、冬のこともあれば夏の場合もある。因みに2023年は3/22~4/20にかけての約1ヶ月、来年はこれより11日前倒しとなる。

 さてパッケージツアー参加でエジプト旅行の場合、その多くはかなりの強行軍である。その中で幾分ゆったりしているのは、ナイル河クルーズを組み込んだコースである。ここで誤解をしないでいただきたいのだが、ゆったりできると言っても ヨーロッパとか他の地域の旅行と比べれば依然として強行軍なので 念のため。日本人のツアーで最もメジャーな航路は 2泊3日のアスワン~ルクソール間(もしくはその逆ルート)だが、個人旅行で直接船会社に申し込めばもっと長くゆったりとした船旅が楽しめる。但しあまり長いと食事に飽きがくるため(どの船旅にも言えることだが、メニューは変われどもシェフが同じなので なんとなく似た味付け・料理になってしまう)日本人にはせいぜい3泊4日位迄が無難な範疇とも思われるが。一口にクルーズと言っても地中海クルーズのような大型客船とは以って非なり、途中で水門を通過する関係上、船体は一様にこじんまりと小さい。アットホームな規模なので 大型船のようにわさわさと人が多く落ちつけないということもなく、ある意味ゆっくり本を読むには最適だ。(但しツアーで参加の場合 観光がぎっしりと組み込まれていることも多く その限りではない)数え切れないほどのクルーズ船が存在するが、エジプトというお国柄もあり 水回りのトラブルなども散見する。しかし河の上では応急処置しか手立てがない。その点できるだけ新しい船の方が リスクを軽減できるし、何より快適に過ごせるであろう。一般的なクルーズ同様、基本的に朝昼晩ともに食事は船内でとるが、朝食は基本どの船でもビュッフェ、昼・夜はチョイスメニュー、BBQなど飽きないよう それなりの配慮と工夫はされている。船のランク次第で微妙に異なるが、夜のエンターテイメントにベリーダンサーの踊りなどを楽しめる船もある。

 尚 余談だが、2色~4色ボールペンを数本持参すると何かと便利な国である。というのもエジプト旅行中 様々なところで ”バクシーシ” と言って、イスラム教でいうところの喜捨を求められる場面に遭遇することであろう。いわゆるチップと思っていただければよい。宗教上メンタリティが異なり、悪びれることもなく堂々と当然のように要求してくるので、正直違和感を覚える日本人も決して少なくはない。とにかくちょっとしたサービスや親切にはほぼもれなくついてくる、例えば遺跡の係員に出口まで案内してもらったとか、写真を撮ってもらったか、その程度のことでも。しかし困ったことにエジプトでは小額紙幣や小銭の流通が慢性的に不足気味なのだ。お土産の習慣のある日本人にとっては現金を渡すより抵抗が少なく、また "日本の“ 高品質なボールペンは喜ばれる。あるいはスークの値段交渉の場で威力を発揮するかもしれない、たかだかボールペン1本と思うなかれ、意外と重宝する。2019年にエジプトを訪れた際も未だ地方での “日本のボールペン"人気は健在であった。

「…季節はあまにもすすんでしまった。私がもくろんだ目的は達せられている。エジプトが私をよんでいる」

アンドレ・マルロー編「ナポレオン自伝」

 

 

 

 

ラパス・ウユニ塩湖「ゲバラ日記」「革命戦争回顧録」チェ・ゲバラ  

      《 ゲバラ日記 》

1966年12月31日

 われわれの運動こそ南米大陸革命の新たなムリヨ『雄叫び』であり、革命の大義の前にはわれわれの生命など物の数ではないと答えた。フィデルカストロ)からの心のこもったメッセージが届いた。

1967年6月14日

 私は39才になった。ゲリラ戦士として自分の将来を考えなければならない年ごろが、否応なしに近づいている。いまのところは”シャンとして”いる。

1967年8月8日

 いまや、われわれは重大な決断の時機にさしかかっている。こうした闘争はわれわれに人類最高の次元に位する革命家になる機会を与えてくれるものであり、人間として自分自身を試す機会をも与えてくれるからだ。…要するに、われわれはもっと革命家らしくなり、模範的にふるまわなければならない。

     《 革命戦争回顧録

・過激で急進的な社会改革である革命は、そのどれもが特殊な状況下で遂行される。それらはまずほとんど円熟した状態で出現しないし、その詳細のすべてを科学的に予見することもできない。それは社会的改革を求めて闘う人類の熱誠を素地に、その即興的行為をもって成し遂げられる。そしてそれは、決して完全無欠ではない。我々の革命も例外ではなかった。

・…深刻な意見の相違が持ち上がり、時にそれは激論を招く結果になった。…革命の分別が万事に優先して、結束という名の下に譲歩を見た。われわれは盗みを許さなかったし、少しでも裏切る可能性があるように見える者は重要な地位には就けなかった。一方で彼らを粛清することはしなかった。

・革命家の品行は、革命家の信条を映しだす鏡そのものである。革命家を自称する者がそれにふさわしい振る舞いをしなければ、彼はペテン師以外の何物でもない。

・…全員が戦場で自分に華々しい瞬間が舞いおりるのを切望している。それでいてわれわれには誰一人として戦いたいと思っている者などいやしなかった。全員が必要に迫られて戦っていたのだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 日記、回顧録ともに1つの文学として読むことができる。ゲリラ軍の医者としての役目も果たしながら、その合間をぬって書きとめられたメモを元にした回顧録には、キューバ革命のさなか 持病の喘息に悩まされながらの その苛酷な日々と正直な気持ちが吐露されている。

「…行軍は私にとって苦行であった。…闘争に求められる身体的条件はきわめて厳しかったが、精神的条件はそれ以上で、われわれは常に包囲攻撃の的にされているような気持ちで日々過ごしていた。…喘息の発作がひどくて一歩進むのがやっとのありさまであった」

「多くあり過ぎて語り尽くせないほどの試練と辛苦を潜り抜けた後に」

 彼らはついに勝利を勝ち取る。そして彼は断固たる決意を述べる。

「今のわれわれは名誉を挽回できない南アメリカ諸国の希望の星である。…キューバ国民は、われわれの領土の完全なる自由を手にするための闘争を開始する。…革命の血の最後の一滴がしたたり落ちるまで戦う所存である」と。

 キューバ革命達成ののちも、アフリカ・コンゴ、更にボリビアへとチェの革命の旅は続く。ゲバラ日記はボリビア闘争中に書きとめられたもので、10月7日で途切れる。その翌日ボリビア政府軍に包囲、攻撃を受けて捕まり、翌9日に銃殺されたのだ。39才という若さであった。

 ジョン・レノンが「世界で一番カッコイイ男」と絶賛し、サルトルが「20世紀における最も完璧な人間」と評したチェ。戦場でも読書をかかさなかったというチェの残した言葉は、今も我々に勇気を与え続けている。

・もしもわれわれが空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、出来もしない事を考えていると言われるならば、何千回でも答えよう「その通りだ」と。

・甘ったるいと思われるかもしれないが、言わせてほしい。ほんとうの革命家は、大いなる愛情に導かれている。愛のない本物の革命家なんて、考えられない。

・酒は飲まない。タバコは吸う。女を好きにならないくらいなら、男をやめる。革命家としての任務を最後までまっとうできないならば、僕は革命家であることをやめる。

・革命においては、勝利か、さもなければ死しかない。

・革命はリンゴではない。熟したから落ちる、というものではないのです。あなたが落とさなければなりません。

・人間は環境の奴隷と道具であることをやめ、自らの運命を設計することができる。

・僕はこの上なく素晴らしい日々を生きた。(カストロへの別れの手紙)

 回顧録を読むとチェが同士であったカストロへ全幅の信頼をおいていたことは明らかだ。

「われわれは勝利するか、死ぬかのどちらかである、それもわれわれだけで。われわれがわずか12名の仲間に過ぎなかったあの時以上に…あの頃以上に、…われわれが峻烈な闘争の日々を迎えることはあるまい。…威厳のうちに死を迎えるために仲間は不要である」

  フィデル・カストロ

 「…革命成就後は、その功績と献身により新政府の要職を与えられた。しかし、その地位を惜しげもなく捨て、後の権力を盟友カストロに託し、次なる「革命」に向かって行ったのだ。

 …権力の遂行は、革命ではない。不断の革命を行うためには、権力構造は毒にしかならない場合が多い。その意味で、ゲバラは歴史上まれに見る、革命の精神を持ち続けた真の革命家と言うことが出来るのではないか。…社会革命の恐さは、その『権力構造』にある。…みな、その権力の腐敗ゆえに滅び去ったのである。それゆえに、ゲバラは権力を放棄した。革命の精神は、権力を嫌っているのだ。

 …不断の革命に生きることは、痛みと困難を伴う」

  執行草舟著「憧れの思想」

 また、チェはキューバ革命後の1959年キューバ使節団長として来日を果たしている。超過密スケジュールの中 日本側に無断で大阪のホテルを抜け出し、夜行列車で向かった先は、広島記念平和公園と原爆病院であった。

アメリカにこんなにされてなお、君達日本人は彼らの言いなりになるのか」チェのあまりにも率直な問いかけに、我々はいつもの曖昧な態度でやり過ごすことしかできない。不甲斐ない。かつて日本の革命を成しとげた明治の人に合わせる顔がない。明治の申し子ともいうべき西郷隆盛とチェの間には「無私」という点はじめ共通点が多い。奇しくも共に道半ばでこの世を去って逝った。

     <天空の首都ラパス>

 チェの終焉の地は祖国アルゼンチンではなく、ボリビアの標高2200メートルにあるアンデス山中の寒村であった。

 2回目の南米~中米旅行の日記にチェは「田舎の少女のように無垢で素朴なラパス」と書き記している。

 首都ラパス空港の海抜は4,000メートルを超え、市街地も富士山より高い所に形成されている。しかもすり鉢状の周囲は坂だらけの地形である。高地ゆえ僅かな坂道や階段でもあっという間に息が上がる。従ってラパスの場合、裕福層は標高の低い谷底に、貧乏人は丘の上の見晴らしのいい土地にその居住区が形成された。

 むろん旅行者にとって注意すべき点は ペルー同様 高山病である。ヨーロッパアルプス辺りで症状がでたような人が訪れるような土地ではない。アルプスのような短時間の山の滞在で症状が出てしまうような人は、よっぽど体調が悪かったというのでない限り、高山病体質であることは明らかだから、こうした人が無理して行ったところで観光どころではなく、本人が辛い思いをするだけだ。前述のように玄関口である首都ラパスも富士山同等の標高であるため、ペルーのように最悪の場合 低地の首都リマへ戻って休養という訳にはいかないのだ。

 加えて米国経由で途中2度乗り継ぎが一般的なため、体への負担は言うまでもなく、経由地でのスーツケースの積み残しや予定便の遅れや欠航によるトラブルの可能性が他の地域に比較して格段に高い。要するにボリビア旅行には、チェ・ゲバラのような崇高な覚悟とはまたの覚悟を必要とする。

 しかしながらある種アドベンチャー的な旅を好む人にとっては、それはもう圧倒的に楽しい国だと言える。

 人気のウユニ塩湖について旅のアドバイス。冬、つまり日本の夏が乾季で、夏(日本の冬)が雨季となる。乾季には水が干上がって塩が結晶化した白い土地になってしまう為 インスタ映えする”鏡張り”の写真を撮るなら選択肢は雨季一択となる。但し温暖化とか異常気象により、正直そのタイミングはかなり難しい。適度な雨は必要だが、降りすぎると今度は移動が困難になったり湖面が泡立ってしまう。パッケージツアーに参加の場合は 現地旅行会社がレインシューズを用意をしてくれる場合が大半である為 日本から持参の必要はない。また塩湖の水は乾くと塩分が白く結晶化し、服につくと大変落ちにくい。黒っぽいパンツやジャケットは白い汚れが目立つが、白っぽい服装であれば目立ちにくい、一方、塩湖上での写真にはあでやかな色がよく映える。晴天であれば夜空も素晴らしいが、夜間の冷え込みが大きいので防寒具必携。湖上なので待機場所とかはないが、4WDの車の中にいれば寒さはしのげる。白く結晶化した塩を切りだした「塩ブロック」を使用して建てた塩のホテルが有名である。快適とは言い難いがせっかくなので話の種に一度宿泊してみるのも悪くはない。というのもこの辺りは例え一般的なホテルに宿泊したところで都会にあるような快適なホテルはほぼ皆無なのだから。

 

 

クスコ・マチュピチュ 「モーターサイクル・ダイアリーズ」「ふたたび旅へ」チェ・ゲバラ

 《 モーターサイクル・ダイアリーズ 》

・この「果てしなく広い南アメリカ」をあてどなくさまよう旅は、思った以上に僕を変えてしまった。

・…ぬかるんだ地面を果てしなく何時間もさまよってから、いきなり林が消えて平地に出た。大きな鹿が流れ星のように川を横切り、昇りつつあった月に銀色に照らされたその姿は茂みの中に消えた。僕らの胸に「自然」が触れた。この時僕らも共有していた野生の聖域の平和を邪魔しないように、おそるおそるゆっくりと歩いていった。

・雪を戴いた山々が四方八方から僕らを見つめており、文明化したビクーニャ(野生のラクダ科の動物)が自分たちを攪乱させる存在から素早く逃げていった一方で、リャマやアルパカの群がトラックの歩みを無関心に見つめていた。

・…気の進まない旅行者になって、この都市を表面的に通り過ぎ、鉛色の冬の空の美しさの中で楽しむことへと誘うクスコだ。けれども、その歴史遺産の中にこの地方を征服した戦士たちの恐るべき気力をのぞかせている、感動に打ち震えるクスコもある。

・…考古学的・観光的な重要性において、この地域のあらゆる場所をしのぐのは、マチュ・ピチュである。…実際のところ、どれがこの都市の原初の起源だったのかはたいして重要ではないし…そんな議論は考古学者たちに任せておいた方がよい。…この景色は、ここの遺跡の間を意味もなく徘徊する夢追い人や、あるいは、旅慣れた北米人を恍惚とさせるのに必要な環境を提供している。

・カクテルのシェーカーのように揺れる飛行機に乗っての快適な旅のあと、ボゴダに着きました。(コロンビアから母親への手紙)

《 ふたたび旅へ・第2回アメリカ放浪記 》

・…どんな困難にぶつかったって、またその上に喘息の発作が起きたって、耐え抜くことができると自覚が持てた…

・政治的な出来事といえば、キューバ人革命家のフィデルカストロに出会ったこと。若くて聡明で、非常に自信家であり、普通では考えられないような勇敢さを持った青年だ。お互いに気が合ったと思う。

ラテンアメリカの希望を現実のものとする人間は、大きな歴史的責任を負っている。…暴力には武力でもって応えるべきときがきたのだ。

・新しい国に行っても、もうそれはその土地を歩き回ったり、博物館や遺跡を見たりするためじゃなくて、それにとどまらず…人民の闘いに身を投じていくためなんです。(母親への手紙より)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 チェ・ゲバラ23才医学生時代の南米大陸横断旅行の日記であり、映画化もされた。同行者は仲の良い友人で医者のアルベルト、移動手段は古ぼけたバイク、そのバイクが使い物にならなくなってからはヒッチハイク、極一部船や母親への手紙に書かれているように空路も利用した。

 続いて早くも翌年2回目の旅へ出発、日記の内容が変貌していることに気づくであろう。半分以上が南米各国の社会情勢や政治関連となり、そしてそのままキューバ革命への参加と続くのだ。

 チェが残した日記、回顧録、もしくは手紙など相当な分量になるが、読書好きだったチェの文学的素養が垣間見れる。革命家の道を選択していなければ順当に医者の道を歩んでいたであろうことは想像にかたくないが、新聞記者やジャーナリスト、もしくは著述家でもいけそうな若きアルゼンチン医学生の生き生きとした文章には、まばゆいばかりの未来が見え隠れしている。その十数年後に革命の道半ば39才という若さで銃殺される未来が待ちうけていることを一体誰が想像したであろう。

 最初の旅は母国アルゼンチンからスタートし、隣国チリへ、更に北上しペルーでは人気の観光地でもあるクスコやマチュピチュも訪れている。チリの湖畔の村を訪れた際にチェは「観光地として”開拓”されて生き残りが保障されたその日、暮らしにくい気候と交通の便の悪さに打ち勝った」と、23才の学生とは思えない実に冷静、かつ的確な感想をもらしているが、クスコやマチュピチュにおいても彼の見立てと同様のことがいえる。

     <ペルーあれこれ>

 チェは友人に宛てた手紙で次のようにしたためている。

「くどいようですが、できればすぐにでも、あのあたり、特にマチュピチュには行ってみることをお勧めします。絶対、後悔しないこと請け合いです」

 マチュピチュの遺跡は日本でも知名度・人気とも常に上位に位置する観光地、いつか行ってみたいという願望をもつ人も数多い。しかしその希望を実現させるにあたり、いくつかの越えなくてはいけないハードルがアンデス山脈ほど高くないかもしれないが立ちはだかっている。

 まず第1にマチュピチュ自体が遠いということ。直行便はなく米国経由が一般的である。ペルーに着くまでに機内食4回、時差で到着前からフラフラだ。往復に3日とられる為 ある程度の観光をこなすには最低8日は必要、極めて効率的に組まれたパッケージツアーで最低8日、個人旅行であれば プラス1-2日 もしくはナスカの地上絵などどこかの見学を省くしかない。そんなに長く仕事を休めないという方は、現役の間はペルーは潔く諦めよう。何しろマチュピチュ迄はリマから国内線でクスコへ飛び、そこから列車に揺られ、最寄駅で下車後は乗合のシャトルバスでいろは坂のようなヘアピンカーブの山道を上るという、気の遠くなるほどに長い道のりなのだ。旅行期間にしろ費用にしろハワイのようにはいかないということはご理解いただけるであろう。

 次に体力的な問題があげられる。マチュピチュは標高2,800メートルにある遺跡で、3時間程度徒歩で坂道と石段を歩く。現在海外旅行の主流は中高年であるが、マチュピチュに行くなら1年でも早くと言われる所以である。

 そしてそれ以上に抜き差しならない要素として高山病があげられる。スイスのように高い山に登ってもそれは見学だけで、宿泊は山のふもとというのであれば全く問題ない。これまでの経験では標高3,000m辺りを境に高山病の症状を訴える人がわらわらと出現してくるが、ペルーの場合 標高約3,300mのクスコに1泊せざるをえない行程が殆どなのだ。いくら口を酸っぱくして注意喚起したところで、インスタ映えする写真を撮ろうとジャンプしたりetc…はしゃぎ過ぎた挙句、やがてぐったり動くこともままならず低地のリマに戻るまで頭痛に喘ぐ旅行者の悲惨な末路をこれまで幾度となく目にしてきた。むろん用心して大人しくしていたところで、高山病体質の方の場合、症状が表れるのは時間の問題と言えなくもない(因みにボリビアのウユニ塩湖は更に高い富士山並の標高約3,700mでもっと過酷である)高山病体質でさえなければ、ペルーの食事はセビーチェにロモサルタードect…日本人の口に合うし、見どころ満載で一生に一度は行ってみるに値する国、チェ・ゲバラも言うように後悔することはないはず!

 参考までに、南半球なので日本の夏が冬で 日本の冬が夏、マチュピチュは夏が乾季で 冬が雨季、リマはほぼ砂漠。高地のクスコでは日陰は寒く日なたは暑い、そして雨が降ると一気に気温が10度位下がったりする。…何を着ればいいかわからなくなってしまった方、地球の歩き方等 ガイドブックを参考に。

 

 

メリダ・ユカタン半島 「遠い落日」渡辺淳一

・(米国に向かう船中 先輩から米国の新しい本をすすめられ)古くても、シェイクスピアは英語の古典です。なにごとも、まず古いものから読んでいくというのが順序です。

・(白人の悪徳について)…いつか、世界の物質的文明が同程度に達したときには、彼らの特徴は黄色人種にもゆき渡り、白人だけの特性でなくなることは間違いありません。

・人間は大丈夫だと思えば大丈夫なものだ。人は心意気で生きるものだ。なにくそ、という気持ちがあればなんでもできる。

・人間は体のことを考えるようになったら終りだ。自分をいたわるようになったら、もうエネルギーはなくなったということだ。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 子供の頃 大半の日本人が手にしたであろう一般的な偉人伝とは異なる、リアルな実像にせまる野口英世の伝記である。著者は学生時代 医学部で細菌学を学んだ渡辺淳一氏。

 猪突猛進で反骨精神に溢れる一方、エキセントリックな一面をも併せもつ細菌学者の知られざる人物像は どこまでもエネルギッシュなこと、この上ない。この本での野口英世は 家庭環境こそ違えど“政界の黒幕””右翼”と呼ばれた三浦義一によく似た印象だ。孫の三浦柳著「残心抄」の中で語られる三浦義一も猪突猛進、金銭感覚がなく 大借金をつくるが なぜかいつも誰かが助けてくれる、その一方で大変繊細な一面を併せ持ち 身体的苦労を背負っていたなど 複数の点において酷似しており興味深い。

 私ごとではあるが、昔イエローカード入手の為 黄熱病のワクチンを接種した。エチオピア経由でケニアに入るということで、用心のための入手であった。しかしこの本を読むまで、黄熱病の病原体が細菌ではなくウイルスである知識すら持ち合わせてはいなかったのだから気楽なものだ。参考までに細菌によるものが、ペスト・破傷風結核コレラジフテリア・百日咳・赤痢・腸チフス・猩紅熱など、ウィルスによるものが、コロナウイルスはもちろん黄熱病やインフルエンザ・天然痘狂犬病・小児マヒ・はしか・日本脳炎エイズなど。細菌とウィルスの違いは主にその大きさにより、2つの病原体の間には更にリケッチャ・クラジミアも存在する。人間の細胞をバレーボール位とするなら、細菌はゴルフボール、ウィルスは米粒程度の大きさに匹敵するそうだ。ウィルスは20世紀に入って開発された電子顕微鏡でこそ見えるものの 光学顕微鏡では見えない、つまり野口英世の時代はどうころんでも黄熱病の病原体を見つけることはムリな話しだったのだ。

事実 医者でもある著者は本の中で

「…ウィルス疾患に挑んだ野口の敗北は、個人の失敗というより、学問の発展途上における必要やむをえざる誤りであったともいえる」

と述べている。その到達不能なことに挑んでいたのが 野口英世はじめとする当時の研究者たちで、そしてその研究の過程で命を落としたのは、本にも書かれているように野口英世一人ではない。現在 汚染地域にも注射1本のワクチンを打つだけでゆうゆうと出かけることができる、それは彼らの犠牲の上に成り立っているということを忘れてはなるまい。

 また冒頭に引用した明治生れの人らしい発言も興味深い。更に特筆すべきは明治の人のお人よしといっていいほどの鷹揚さ加減であろう。いくら相手が野口といえども度重なる無心、しかも金銭感覚が破綻した人物ゆえ 返済されるあてもないのに言われるがまま差し出す懐の深さは現代人には到底理解できない。つまり野口の偉業もまた、彼を支えてくれた周囲の人々の上に成り立っていたのだ。

 ペニシリンの発見者フレミングの時代、戦闘で死亡する兵士より、チフスコレラ赤痢などで死亡した兵士の数の方がはるかに多かったそうである。過去から現在まで細菌やウィルスとの果てしない格闘は続く。やがて新型コロナウィルスがおさまったとして、またいつか新たな別の脅威が登場するのであろう。

 また抗生物質の発見される以前の時代を覚えているかなり高齢の医師や看護師しか、抗生物質のもたらした医学の革命を正当に評価することはできないであろう。…1918年5月に、ヨーロッパで、おそらくスペインから、インフルエンザが流行し始めた。インフルエンザは、アメリカ合衆国を含む交戦国に急速に流行していった。発病率は高かったが、死亡率は比較的低かった。しかし、この流行の第一波の終わり近くになると、不気味なほど死亡率が急上昇した。…10月になると大流行の第二波が始まり、地球上のすみずみまで破滅的な影響を及ぼしながら広がっていった。今度は第一波のものよりはるかに悪性で、恐ろしい勢いで致命的な肺感染を起こした。医者も手のほどこしようがなかった。1918年の終わりには死者は200万人を超えた。

 「奇跡の薬ペニシリンとフレミング神話」より

・…ある方法で死ななくなれば、別のもので死ぬのです。その移り変わりが、不治の病と呼ばれてれてきただけです。昔はほとんどが感染症、特に肺炎や結核コレラなどで死ぬ人が多くいました。抗生物質の発見によって人間が細菌の感染で死ぬことは少なくなり、現代では感染症ではなく、生活習慣病というもので死ぬわけです。ガンなどがその代表で、不治の病と呼ばれています。今後人類がこのガンなどの生活習慣病を克服すれば、また別な不治の病が出てきます。  執行草舟著「生命の理念Ⅰ」

・ウイルスとは、膜と蛋白質でできた小さなカプセルである。…ウイルスは寄生体である。それ自体では生きることができない。…ウイルスは他者の細胞のエネルギーと物質を利用して延命を図るのである。…地球の免疫システムは今、自己を脅かす人類の存在に気づいて、活動をはじめたのかもしれない。人間という寄生体の感染から自己を守ろうとしているのかもしれない。ひょっとしてエイズは、地球の自己浄化プロセスの最初の一歩なのだろうか。

 リチャード・プレストン著「ホット・ゾーン」

「ウイルスの世界では、わたしたちのほうが侵略者なのだ」

 ジョーゼフ・B・マコーミック著「レベル4 致死性ウイルス」

 

      <知られざる観光大国メキシコ>

 伝記執筆にあたり 著者は取材旅行のため、メリダを訪れている。メリダユカタン半島の玄関口であり、首都のメキシコシティから空路定期便が運航する地方都市だ。旧市街にスペイン風の広場が残るものの、特に見るべきもののない静かな田舎町で、チェ・ゲバラは2回目の南米大陸横断時にメリダを訪れた際 次のように日記にしたためている。

「この手の街としてはかなり大きいが、生活はとても田舎っぽい。…昼間のひどい暑さを考えれば、夜はかなり涼しくなる。…1番の魅力は、廃墟と化した周辺のマヤ都市で、ウシュマルとチチェン・イツァという2大中心地を訪れた」

 チェ・ゲバラ同様  多くの観光客はメリダを通過するだけで、郊外の遺跡観光へと出かけてゆくが、我々日本人にとっては野口英世ゆかりの地ということで、本の中にも書かれている氏の小さな銅像を拝みに立ち寄る場合も少なくない。1919年ユカタン半島で黄熱病が流行し、その中心がメリダであった。研究のためメリダを訪れた野口英世は、その後メキシコ学士院から その功績を称えられ名誉会員の称号を授与されている。

 そもそもメキシコは日本から直行便も就航している割に、人気も知名度も今一つのように感ずる。理由の1つとしてメキシコ政府観光局が、日本ではあまり熱心に宣伝 及び観光客誘致をしていない点が あげられるであろう。なぜなら すぐ北に隣接する大国、米国から毎年大勢の観光客・バカンス客が訪れるてくれるため、わざわざ日本人に来てもらわずとも痛くも痒くもないのだ、全くのところ。

 実はメキシコは観光資源が大変豊富な国で、ピラミッドだってエジプトに負けないくらい存在する。一般的にピラミッド=エジプトなので、初めてメキシコを訪れた時は正直とても驚いた。それらは主にメキシコシティ郊外のティオティワカンとユカタン半島に点在する。ユカタン半島にはマヤ人の末裔も多く、首が短いのが特徴で 肩の上にすぐ顔がのっているように見えるので すぐにわかる。また9月に訪れた時は呆れるほどの蚊の大群が発生しており閉口させられた。メキシコシティは標高2200メートルを超す高地だが、ユカタン半島はそうではないため 夏場は特に蒸し暑く 遺跡の見学も正直大変きつい。その一方カンクンのビーチは冬場泳ぐには肌寒い日も少なくないので、訪れる時期の判断を誤らないよう 注意が必要。つまり自分は遺跡観光とビーチリゾートのどちらをより楽しみたいのかということだ。因みに冬場 高地にあるメキシコシティは朝方 霧が立ち込めやすく 空路のスケジュールが乱れがちなのも重要なポイント。空港で何時間も待たされたり、あやうく帰国便に乗り損ねそうになったこともあった。そもそもメキシコに限らず中南米の場合トラブルがなければラッキーという程度の気持ちで臨んでいただきたい。万が一トラブルに直面したところで メキシコ人のように濃いテキーラマルガリータを飲み 本場のタコスを食べて憂さ晴らしすればすぐに気が晴れるので大丈夫。ビバ メヒコ!

・マリアッチは音楽の陽気な花束だ。

  長田弘著「詩人であること」

・マヤの世界は熱帯の天蓋の下にある。

  西江雅之著「風に運ばれた道」

 

 

英国「日の名残り」カズオ・イシグロ 

・…それはそれはすばらしい田園風景が目に飛び込んでまいりましたから。…大地はゆるく上っては下り、畑は生け垣や立ち木で縁どられておりました。遠くの草地に点々と見えたものは、あれは羊だったのだと存じます。右手のはるかかなた、ほとんど地平線のあたりには、教会の四角い塔が立っていたような気がいたします。…あの場所で、あの景色を眺めながら、私はようやく旅にふさわしい心構えできたように思います。

…この静かな部屋で私の心によみがえってくるのは…あのすばらしい光景、うねりながらどこまでもつづくイギリスの田園風景のことです。もちろん、見た目にもっと華やかな景観を誇る国々があることは、私も認めるにやぶさかではありません。…そこには、外国の風景が…決してもちえない品格がある。そしてその品格が、見るものにひじょうに深い満足感を与えるのだ、と。…この国土はグレート・ブリテン、「偉大なるブリテン」と呼ばれております。

・並の執事は、ほんの少し挑発されただけで職業的なあり方を投げ捨て、個人的なあり方に逃げ込みます。…偉大な執事が偉大であるゆえんは、みずからの職業的あり方に常住し、最後の最後までそこに踏みとどまることでしょう。

執事はイギリスにしかおらず、ほかの国にいるのは、名称はどうあれ単なる召使だ、とはよく言われることです。…大陸の人々が執事になれないのは、人種的に、イギリス国民ほど感情の抑制がきかないからです。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 英国で最も権威ある文学賞ブッカー賞受賞作。アンソニー・ホプキンズ主演で映画化もされた。

 父親のあとを継ぎ仕事を全うする英国執事の回想。決して出しゃばることなく影から名家の主人を支えるその真摯な仕事観にかつての英国の真のジェントルマンの姿をかいまみる。主人亡きあとはお屋敷が裕福な米国人の手にわたるなど、時代の移り変わりをもさりげなく、しかしきっちりと丁寧に書きこまれた作品には、終始晩秋の夕暮れを思わせる静寂と共に、少しだけ物悲しい空気が満ちている。主人公の執事が実在し、まるでその本人が執筆しかたかのような見事な筆さばきは、ノーベル賞受賞作家の面目躍如たるもの。しかも著者の両親は生粋の日本人、子供時代から英国在住とはいえ、英国貴族の執事という職業をよくもここまで詳細に違和感なく書きあげたものと感心しきり。

 これまでの人生に思いをはせつつ、主人公の執事は英国の田園地帯を一週間ほどかけて巡る。そして幸いなことに英国の田舎は当時も今も変わらず美しい。

      <英国と英国人>

「イギリス、とりわけロンドンの冬は、雲が低く、どんよりと垂れこめ、陽の光も鈍く白ちゃけて、心まで妙にめいりこむような午後がよくある」

 サマセット・モーム著「ホノルル」

「3月、4月になろうというのに今にも泣きだしそうな暗い天気が続き、5月になってもまだせっかくの輝きを吹きとばすような寒風が吹くと、せっかくの私の意気も沮喪してしまうことがしばしばであった。…島国であるイギリスの太陽は堪えられないほど暑くはない。…私はもちろん天気のことをぶつくさいいながら、ただ人の同情を招くにすぎない弱虫の一人である」

 ギッシング著「ヘンリ・ライクロフトの私記」

 5月になってもウールのコートが手放せない、ということは英国では決して驚くようなことでも珍しいことでもない。なにしろ北緯50度なのだから。因みに東京は35度、ローマは36度である。そうは言っても暖流メキシコ湾流の影響を受け、緯度の割りには温暖と言える。例えば英国より南に位置している内陸の中欧辺りは冬の寒さが大変厳しく零下20度も珍しくないが、英国で零下になることは稀で雪でも降れば日本のようにニュースになる。むろん南欧の気候とは比べようもない。

 そんな英国も6月にもなれば気温も上昇し、高緯度なだけに日照時間も日本より格段に長くなる。日本のような梅雨もなくさわやかな最良の季節の到来だ。

 小説の中の描写にもあるように、英国の田舎・田園風景は実に美しく、訪れる価値は十分にある。知名度もあり人気があるのはロンドンから日帰りも可能なコッツウォルズ地方だが、正直なところ年々観光地化が進み、町によっては観光バスが何台も連なっている光景も決して珍しくはなくなった。

 英国は日本同様の右ハンドルの国だから、レンタカーでのドライブも大陸側より違和感なくドライブもしやすい。高速道路モーターウェイは無料、ドイツや中欧辺りとは異なりサービスエリアのWCも無料、道路標識はキロではなく 米国同様のマイル表示(1マイル=約1,6キロ)である。また田舎の一般道の交差点には信号機はほぼなく、ラウンドアバウトと呼ばれるロータリーが設けられていることが殆どだ。

 一般的なホテル滞在は都市ロンドンに任せ、田舎の宿泊はB&Bなどを利用するのも悪くない。しかしもっとオススメなのは、この小説の舞台でもある貴族の邸宅、それらを宿泊施設に転用したマナーハウスの宿泊だ。古さ故に水回りの使い勝手が悪かったりもするが、雰囲気は格別だ。こうしたマナーハウスの多くは広大な敷地に囲まれている為、朝夕の散歩も楽しめる。そして英国の田舎全域にこうしたマナーハウスが多数存在する。現在は様々なホテルサイトで詳部まで紹介されている為、事前のチェックさえ怠らなければ大きく期待を裏切るということも少ないはず。

 最後に余談ではあるが、英国人について。知の巨匠 故・渡部昇一著「アングロサクソンと日本人」という講演を元にした本が、大変読みやすく またわかりやすく、知っていそうで知らないこともあれこれとりあげられており興味深かった。氏の膨大な知識量にも驚かされた。

 まず英国人は元々ドイツ人=ゲルマン人であり、英語はインド・ヨーロッパ語族という大きな括りの中の一言語だが、オールド・イングリッシュ、古英語はドイツ語の一方言であった。むろんここで言うところの英国人とはアングロ・サクソン人のことを指しており、ウェールズ人やスコットランド人のことではない。ドイツにはアングル人の故郷であるアンゲルン地方と、サクソン人の故郷であるザクセン地方が存在し、いずれもゲルマン民族の部族で5世紀半ばに英国に渡ってきて定住を始めたという訳だ。つまり約1500年前は英国人というより ドイツ人という認識である。その後キリスト教が入ってきたのはドイツより英国の方が早かった為、英国人が先祖の故郷であるドイツに布教に出向いた。ここで渡部氏は当時、つまりキリスト教以前のゲルマン人の考えに先祖崇拝など日本人と共通点があることを指摘してる。またルーツは同じゲルマン人と言えども、現在のドイツ人と英国人のメンタリティが同じとは言い難い。渡部氏いわく、 英国人はいわゆる島国根性になったから、と言う。わからなくもない話ではある。

 また本の中で、第二次世界大戦後に首相になったマクミランが、ある時イートン校の卒業写真を見たところ、殆どが第一次世界停戦で戦死していた旨の記述がある。イートン校というのは言わずと知れた名門私立・パブリックスクールの中でも有数のエリート輩出校である。これが意味するものは、英国貴族階級の『ノーブレス・オブリージュ』の精神である。高貴な身分の者たちがいざとなったら国の為に率先し戦地へ向かい、そして散っていったという。英国のジェントルマンクラスというのは死を厭わないという点において、日本の侍・武士と同じだったのだ。そしてこの『ノーブレス・オブリージュ』の精神こそが、イギリスがイギリスたる所以なのだ。