至福の読書・魅惑の世界旅行

読書の海・世界の空  海外添乗歴30年  元添乗員の読書&海外旅行案内

イタリア 「遠い太鼓」  村上春樹

・もしイタリアという国の特徴を四十字以内で定義せよと言われたら、僕は 「首相が毎年替わり、人々が大声で喋りながら食事をし、郵便制度が極端に遅れた国」 と答えるだろう。

・ローマというのは はっきり言って巨大な田舎町みたいなところである。…ニューヨークや東京にくらべて圧倒的にちいさいし、遅れている。

・イタリア人には口先だけ愛想が良くて内容が伴わないというタイプが圧倒的に多い…

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 作者についてはわざわざ説明を付け加える迄もない。著者が1986年から1989年にかけておよそ3年の間、ヨーロッパに滞在した時の記録、文庫本でもかなりの厚みで読み応えのある滞在記である。

 純粋に読み物として面白い。滞在中の様々なエピソードが、淡々とした文体とあいまって可笑しみを増幅させている。そのエピソードの多くは酷い目に遭った話で、人の不幸を笑うようだが、自分の経験上 わかり過ぎてしまうが故に、読み進みながら 力強く同意してしまうのである。実際のところ この本の中で語られる話と同じようなエピソードや実体験は複数ある。ドイツの作家で詩人のエンツェンスベルガーは 理不尽だらけのイタリアを「カオスの共存」と評し、イタリアが存在しなければ ヨーロッパはもっと息がつまるだろうと語ったらしい。この意見にも同意せざるを得ない。下手なガイドブックよりもよっぽどわかりやすく、より具体的に現地事情を伝えてくれるガイドブック的一面を併せ持つ本。イタリアのガイドブックや紀行文等関連書籍は、その人気とあいまって多数出版されている中、この本で語られる内容は30年前の話であり、それ相当の変化が生じている事は否めない。しかしながら今読み返してみても基本的な部分は大して変わっていない。いずれにしろ現代日本を代表する有名作家が書いた滞在記が他の同類の滞在記に追随を許すはずもないのだ。イタリアもしくはギリシャを訪れる人、イタリアもしくはギリシャから戻った人にお薦めの1冊。(前半はギリシャに滞在していたため、ギリシャでの話にもかなりの紙面がさかれている)

  <必読・イタリア旅行の前に>

 ジプシーをはじめとするコソ泥に注意!それに尽きる。例えばスペインは昔も今も強奪がどちらかと言うと多めだが、イタリアは昔からスリと置き引きが圧倒的に多い。これらには自己防衛が有効である。つまり対策さえ怠らなければ、被害に遭わずに済んだのに…という残念なケースが大半を占める。盗難証明を貰いにローマの警察署に出向くと同類の途方にくれた観光客が続々とやってくることに驚かされるのだ。ほぼ半日を埃っぽい警察の待合室で費やし、所持品だけではなく自身の時間、しいては思い出にまで被害が及ぶという事を肝に銘じてほしい。残念ながら いくら注意喚起したところで聞く耳を持たない人というのは一定数存在する。そうした人から被害の報告が寄せられる度、強い無力感に苛まれると同時に、微かな怒りがふつふつと湧き起こってくるのを止められる術はない。言うまでもなくこうした被害に遭ってしまうと それまでの楽しかった旅の記憶は、遥か彼方に吹き飛ぶ。「盗人に取り残されて窓の月」と詠んだ良寛のように達観した人なんてそう滅多にはいないのだから。

「いろいろ旅の注意をききに行った。…馬車のよけ方とか、金をすられない方法とかについて数々の注意をし、お金は着物の裏に縫いつけておいて、ポケットには当座どうしても必要な額だけを入れておくようにしたほうがいいと忠告した」

  モーパッサン著「女の一生

馬車が自動車に変わったくらいで、150年前も今も大して変っていないようだ。バッグのファスナーにダイアルロックを取り付けるのも大いに有効、オススメだ。

 「…困った時の神だのみ、と人々は言う。そのことを学びたいと思ったら、イタリアに行け!外国人はきっと困ることを見つける」

  ゲーテ「ベニス警句」

「旅行とはトラブルのショーケースであり、数多くの旅行をしたのちに体得した絶対的真理として根本的に疲れるもの」

「…『旅先で何もかもがうまく行ったら、それが旅行ではない』というのが僕の哲学(みたいなもの)である」

  村上春樹

しかし、

「…いかなる災難にあわせても、必ず一方の戸口をあけておいて、そこから救いの手を差しのべてくれるものよ」

というドン・キホーテの力強い言葉を胸に刻み、人はまた懲りずに旅に出る。

 

 

 

コルシカ島「人間の土地」「夜間飛行」サン=テグジュペリ

     《 人間の土地 》

・彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、…待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。…彼の職務の範囲内で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。

彼もまた、彼らの枝葉で広い地平線を覆いつくす役割を引き受ける偉人の一人だった。人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。

・…死を軽んずることをたいしたことだとは思わない。その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしていないかぎり、それは単に貧弱さの表われ、若気のいたりにしかすぎない。

・ぼくは、自分の職業の中で幸福だ。ぼくは、自分を、空港を耕す農夫だと思っている。…ぼくには、何の後悔もない。…これはぼくの職業の当然の秩序だ。なんといってもぼくは、胸いっぱい吸うことができた、爽やかな海の風を。…問題は決して危険な生き方をすることにあるのではない。危険ではないのだ、ぼくが愛しているものは。ぼくは知っている、自分が何を愛しているか。それは生命だ。

・…先駆者のよろこびも、宗教者のよろこびも、学者としてのよろこびも、すべて禁じられたあらゆる職業の歯車に巻きこまれている。人は信じたものだった、彼らを偉大ならしむるには、ただ彼らに服を着せ、食を与え、彼らの欲求のすべてを満足させるだけで足りると。こうして人は、いつとはなしに、彼らのうちに…小市民を、村の政治家を、内生活のゼロな技術者を、作ってしまった。人は彼らに教育は与えるが、修養は与えない…。多少程度こそ違え、みんなが生れ出たいという欲求を同じように感じてはいるのだが、ただ誤った解決法が行われているだけだ。人間に軍服を着せることによって、これに生気づけることのできるのも事実だ。…彼らはまたその欲求する、大事に当る気概も見いだすはずだ。ただ彼らは、この差出されたパンのおかげで、生命を失う結果になる。

・たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味をも与えるはずだから。死というものは、それが正しい秩序の中にある場合、きわめてやさしいものだ。

・眠りっぱなしにされている人間が、あまりに多くありすぎる。

・精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。

     《 夜間飛行 》

・規則というものは、宗教でいうなら儀式のようなもので、ばかげたことのようだが人間を鍛えてくれる。

・部下の者を愛したまえ。ただそれと彼らに知らさずに愛したまえ。

・失敗は強者にとっては滋養になる。

・君は信じたりする必要はない、ただやりさえすればよいのだ。

・事業と、個人的幸福は両立せず、相軋轢するものだからだ。

・人間の生命には価値はないかもしれない。僕らは常に、何か人間の生命以上に価値のあるものが存在するかのように行為しているが、しからばそれはなんであろうか?

・外からくる不運というものは存在しないのだが、不運はつねに内在する。とかく、人が自分の弱さを感じる瞬間がありがちのものだが、すると忽ちそれにつけこんでおびただしい過誤がめまぐるしいほど押寄せてくる。

・人生には解決法なんかないのだよ。人生にあるのは、前進中の力だけなんだ。その力を造り出さなければいけない。それさえあれば解決法なんか、ひとりでに見つかるのだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 15年に及ぶ郵便機のパイロットとしての経験を元に執筆された本には、「星の王子様」だけでは決してわかりえない著者の思想が滲み出ている。サン=テグジュペリが仏のリヨンに生を受けたのは1900年、ライト兄弟が初飛行を遂げる3年半前のことである。むろん彼の生きた時代は、まだ航空路レーダーもない有視界飛行の時代だ。飛行は天候次第、パイロットの技術や経験が今以上に大きくものをいう、とりわけ長距離飛行や夜間飛行は運が悪ければ命と引き換えという時代である。アンデス山中で遭難した同僚はじめ、また本人も砂漠の真ん中に不時着・遭難して命からがら生還するという、死と身近に向き合った経験が 精神面に多大な影響を与えたであろうことは 想像にかたくない。読み進むにつれ 砂漠の真ん中で、アンデス山中で、ただ一人風の音に耳をすますような心の静寂に包まれる良書。

 現代の飛行事情は彼の時代から大きく様変わりし、計器飛行かつ自動操縦にとって代わられた。…昔 そう、忘れもしないカナダとエジプトの国内線でコックピット座って移動の経験がある。その理由はいずれも席の不足、つまり航空会社のオーバーブックによるものだ。何がなんでもそのフライトに搭乗しないことには その後の行程が大きく狂ってしまうのだから こちらも必死、そして当方と航空会社のせめぎあいの結果が コックピットの簡易席に結実したのだ。(むろん米国9.11.のテロ以前の話で、あのテロ前と後では あらゆることがすっかり様変わりした。今ではコックピット座るなんてことは、絶対にあり得ない)その時わかったことは 離陸と着陸時を除けば、操縦士はコーヒーを飲んだり ジョークをとばしてみたり、思った以上にリラックスモードだということ。文字通り命がけのサン=テグジュペリの時代とは隔世の感がある。彼がもし今の状況を見たら目を丸くするに違いない。

 1944年、フランス解放戦争に従軍中だったサン=テグジュペリは、偵察目的でコルシカ島の空港を飛び立った後、地中海上で行方不明となる。長いこと謎であった彼の消息は、半世紀以上を経てその全容がほぼ明らかになっている。マルセイユ沖合で見つかった偵察機、元独軍の兵士の証言、いずれも当初予想した通りの結果、つまりナチスの戦闘機隊と遭遇し 追撃されたという事実が明らかにされた。44才の夏のことだ。しかし 彼の著作を読めば、本人がこうした結末をある程度予測していたことや覚悟もあったことは明白だ。大切なことは、どれだけ長く生きたかではなく、どれだけ生命の炎を燃やし尽くしたか、それを痛いほどよくわかっていた人物なのだろう。自分もそうありたいと切に願う。

 ところでEU共通の通貨ユーロが導入される以前、フランスでは自国の通貨フランが流通しており、50フランは彼が消息を絶った紺碧海岸コートダジュールのような鮮やかなブルーで、そこにサン=テグジュペリ本人と小さな星の王子様が印刷されていた。実は長い間 彼の名前のスペルが誤っているということに誰一人気づかなかったという間抜けなエピソードもあったりするが、お国柄故 それをどこかの国のように糾弾する国民は不在のようだ。

   <美食のコルシカ島

 サン=テグジュペリが最後飛び立ったのはコルシカ島の空港だったが、コルシカ島と言えばナポレオンの出生地としての方がよく知られている。地図を広げると伊サルディーニャ島の目と鼻の先、仏ではなく伊の領土であった方がしっくりくる位置関係だ。島民が伊語訛りの仏語を話すと言われる所以でもある。

 仕事でたった1度だけ訪れたコルシカ島で思い出すのは、バケツほどの大きなの器に入った山盛りのウニを食べている人を見たこと。(日本以外でウニを食べている人を初めて見て驚いた…食事はどこもとても美味しくここはグルメの島だと認識した)、国内線の機内上空から雪山が見えたのが意外だったこと(島は想像以上に起伏に富んでおり、海岸線の町から内陸へ移動の時、カーブ続きで珍しく車酔いしてしまった)などだ。正直見るべきものはナポレオンの生家位しかないせいか お正月にも拘わらずお客さんは僅か3名、その後もツアーの集客はさっぱりだったようで、同ツアーがその後 催行された形跡はなく、コルシカ島のツアーはひっそりと姿を消していった。つまり最初で最後のツアーに運良く(?)行くことができたのだった。

 当時はコルシカ島の情報も少なく資料集めに苦労したことを記憶しているが、その少ない本や資料の多くにコルシカ島の住民は排他的云々ということが書かれていた。観光客として僅かな滞在ではそんな風には見受けられなかったが、個人旅行で長く滞在するとまた違った一面が見えてくるかもしれない。コルシカ島が舞台のメリメ著作「コロンバ」のなかに次のような文章がある。

「イタリアの町のように、大声で喋ったり、笑ったり、歌ったりする声はまったく聞かれない。…コルシカ人は生れつき重々しく、無口なのだ」

いかにもこの小説のテーマは復讐、コルシカ人に言わせると決闘、日本的に言えば敵討ちである。しかしそれも過去の話だ。

「こんな気候のすてきな土地で、絶対の自由を味わえるっていう魅力にどうして無感覚でいられるんですかねぇ?」

地中海の島はどの島もそれぞれに魅力的である。

 

 

 

セビリア 「カルメン」 メリメ

・ジプシーの目は狼の目  スペインの諺

・水音をたてて流れている川には、水か小石が必ずある  ジプシーの諺

セビリアへ行かれたことがおありなら、城塞のはずれのグアダルキヴィールの岸に立つ、あの大きな建物をごらんになったに違いありません。私にはいまもまだあの工場の正門とそのそばの衛兵屯所が目に見えるような気がします。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ジプシーの女 カルメンに惚れてしまったのが運のつき、まじめな青年ドン・ホセは、まるでジェットコースターに乗ったかのように 坂道をころげ落ちてゆく…どころか 道から放り出される始末…合掌。ビゼー作曲のオペラ「カルメン」の原作としても有名なメリメの短編小説。あの有名なプレリュードのフレーズが頭の中で何度もこだまする。

 小説の文末にはジプシーに関する詳細な記述がある。近年 派手なテロなどの陰で殆ど話題にのぼることもないが、ヨーロッパ各地に居住する多くのジプシーと ヨーロッパ人の間には、未だそしてこの先もずっと広くて深い溝がある。詳しくは本を読んでもらった方が手っ取り早いが、ルーマニアブカレストで「ジプシー御殿」なるものを見た。ネオクラッシック様式とか幾つかある既存の様式のどれにも当てはまらない独特な建物で、しいて言うなら 西洋と東洋の折衷、洗練された建物とは言い難い外観だった。そう、ルーマニアにはジプシーの国会議員だっている。彼らに手を焼いていることはガイド氏の話でも 痛いほどよく理解できた。政府は彼らに日本で言えばUR住宅のような住居を無償提供した。しかし公共料金を払わないから、やがて電気もガスも止められた。すると彼らは木製の窓枠とかを取っ払っい、それを燃やして使用した。結果 新築住宅は瞬く間にスラムと化した。また フランス政府は片道切符を渡して追っ払っているが、暫くするとまた舞い戻って来ては、パリでスリをはたらく。 未成年の子供達にやらせている為 例え捕まっても暫くすると 釈放されて また同じことを繰り返す。 EUルーマニアに対し 何とかするようジプシー対策の補助金を捻出しているが、額も不足で根本的な解決には程遠いようだ。要するにヨーロッパ、とりわけパリやローマ等都市部を旅行する際は、ジプシーへの注意が必要不可欠、彼等は盗みのプロフェッショナル集団なのだ。

「おお ジプシーの町よ、

一度でもお前を見たら 誰がお前を思い出さずにいられよう?

わたしの額にお前を探せ 月と砂のたわむれを」

 ガルシア・ロルカ著「ジプシー歌集」

「世の中に怖いものなしという連中で、迷信以外には宗教をもたず、言語は多種多様な彼ら独自のロマニー語を使っている」

  ブラム・ストーカー著「吸血鬼ドラキュラ」

   <セビリアと闘牛とフラメンコ>

 アンダルシア地方最大の都会がセビリアだ。アラビア語で大河という意味のグアダルキヴィール川で二分され、オレンジの木や薄紫色の花が咲くジャカランダが街路樹に植えられた街並が美しい。しかし 夏は暴力的な暑さとなる。35度は当たり前、40度でも驚きはしない。観光で訪れるなら真夏は避けた方が賢明だが、暑さにはめっぽう強いと言う人なら 逆にこの時期すいているので悪いことばかりでもない。しかも冷たいサングリアやビールがより美味しく感じるというおまけ付きだ。いずれにしろ日中は熱中症の危険あり、スペインの習慣に習い 冷房の効いたホテルの部屋でまったりとシエスタ、つまり昼寝でもして 日が傾いてから再び街に繰り出すのが正解。そもそもスペインの時間的行動基準は、日本と2時間位の時差がある(実際の時差は夏時間採用時で7時間)昼食は2時頃から、夕食は20時半頃からで、テーブルが回転しない高級レストランの中には夜21時オープンという店すらある。日本ならそろそろラストオーダーの時間だ。

 そんなスペインの長い夜を過ごすのにもってこいなのがフラメンコだ。ロシアのバレエ、イタリアのカンツォーネポルトガルのファド、アイルランドアイリッシュダンス等、各国夜のエンターテイメントは色々あるが、スペインのフラメンコとアルゼンチンのタンゴは頭一つ抜き出ている感がある。とりわけフラメンコは その音楽のリズム・旋律に東洋的側面があるせいか 日本人の琴線に響く。フラメンコを見せる店をタブラオ(板張りを施した舞台の意)と呼び、セビリア規模の街には複数存在する。店の規模や内容は様々だが、HPをもつところも多く 事前に比較検討が可能。同じアンダルシアのグラナダでは変わり種・ジプシーの洞窟フラメンコも楽しめる。その内容だけで比較すれば 正式なタブラオフラメンコの方が時間も長く内容も濃い。但し 洞窟住居を見てみたい、ライトアップした夜景を見たいという方にはオススメできる(大抵の洞窟フラメンコは夜景鑑賞が組み込まれている)

 そしてもう一つは スペインの魂とも言うべき国技・闘牛だ。タブラオ同様 スペインではある程度の規模の街には闘牛場がサッカースタジアムと同じように普通に存在する。町の規模に合わせ収容人員も数百人という小さなものからマドリッドの2万人を上回るものまでピンキリだ。熱狂的ファンは相変わらず存在するし、闘牛専門チャンネルもある。しかし独立問題に揺れているカタルーニャ州等一部地域では 闘牛が廃止されて久しく、国営放送での生中継も既に廃止となった。欧米で発言力のある動物愛護協会からのクレームも影響していると思われる。屠殺と異なり一気に殺さずジワジワと痛めつける闘牛は、見る人から見れば虐待と映るのであろう。八百長問題で揺れた日本の相撲同様、伝統的競技はどこも受難の時代を向えている。

 

 

 

 

 

 

トロイ・ミケーネの遺跡 「シュリーマン伝」ルートヴィッヒ

 ・…たくましい天性は、こんな災難さえも、やがて福に転じてしまったのだった。…こんな不運に見まわれたものの、それは結局、運命によって仕組まれたぼくの幸福と利益のおぜん立てのようだった。

・…神の摂理でまったく不思議なふうに助かったことが何度もある。ただただ偶然のおかげで、確実と思われた破滅から救われたことも一再ではない。 「古代への情熱」より

・だが彼は、月給の半分を勉強のために使っていたのだ。彼はスパルタ式生活をやっていた。そしてその節約した金を家へ送っていたのだ。彼をひどいめにあわせただけのあの父、母を早く死なせ、彼の初恋をぶちこわし、アメリカ行きの希望をふみにじったあの父が、息子にはいまもってふしぎな力を及ぼしていて、息子はこれからさき30年ものあいだ、たえずいがみあい、いきりたった手紙をやりとりしながらも、しだいに多額の金を送りとどけるのである。父に、また兄弟姉妹に。

・秘書も使わないで書類をたえず収集整理すること、おびただしい文通の返事を書くことも、彼には義務であり、つとめだった。手紙を書くときは、一世紀前の商人の流儀で、いつも背の高い机に向かって立ちながら書いた。最後の21年間、手紙はギリシャ語、フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語で書かれた。客と話をするときは、例外なく相手の国のことばを使った。計算や勘定は生涯オランダ語でやっていた。…3桁の掛け算は暗算で即座にできた。

シュリーマンの活動で、一番強い影響を残した点は、彼がとつぜん、考古学という学問に動きをもたらしたことであろう。手術によってからだに活がはいって治療に向かうように…。

・ナポレオンがプルタルクを信じなかったら、あのような大きな目的をたてることさえしなかっただろうし、シュリーマンホメロスを信じなかったらトロイアを捜すこともなかったであろう。

シュリーマンが登場したとき、ホメロスが現実を描いているという、あの信仰を笑いものにしないような文献学者は、ドイツにはほとんどひとりもいなかったし、…遺跡を切断したり、部分的には破壊したりした、その野蛮さを非難してやまなかった。

シュリーマンが死ぬことなく、またこの事実に直面して頭を冷やすことがなかったとしたら、この戦いはさらに続いていたことであろう。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ホメロスの歌ったトロイは、かつて19世紀の学者や歴史家、考古学者たちの多くが神話と見なしていた。しかしシュリーマンは、トロイが古代ギリシャ叙事詩イリアス」の 中だけでなく 実在したものと信じ、その発掘を夢みる。商人として成功した後は、それで築き上げた財産をトロイ 更にはミケーネの発掘へとと投入、結果 発掘に成功する。多くの歴史家や考古学者を出し抜いて遺跡オタクのごとき一商人が、半ば伝説と化した遺跡を発掘したのだ。子供の頃の夢を実現させたと同時に、それは世紀の大発見でもあった。

 商人のシュリーマンとコメディ俳優のチャップリン、全く異なる職業・人生にも拘わらず、自伝を読むと2人の若い頃は奇妙によく似た印象だ。いずれも逆境を避けるのではなく 真正面から立ち向かう、来る波 大波を次々に乗り越えるサーファーのように。遂には成功者として世間から礼讃される立場に至るが、そこに至るまでの数々の艱難辛苦、波乱万丈のエピソードは 意外にも苦労というより 心踊るものだ。彼らの躍動する生命が、現代人が失ったであろう、しかし心の奥底で眠る大事な「何か」を揺さぶるのだ。

 …実はこの本は図書館で借りて読んだのだが、最初差し出された本を見るなりギョッとして思わずガン見した。なぜならボロボロさ加減が半端でなかったから。裏表紙をめくると 何と半世紀以上も昔、あろうことか自分が生れた年に出版された本だった。どうりで自分の身体もボロボロなはずだ。もう1冊の自伝「古代への情熱」は、新潮や岩波から文庫本で出版されているので入手しやすい。

 さて最近立て続けに本を出版されている執行草舟氏の本の中に、シュリーマンと考古学に関する興味深い記述がある。世間一般の認識とほぼ180度異なる見方には、深く考えさせられる点も多く、少々長い引用になるが紹介したい。

「現代は二つの大きな誤まった見方によって、シュリーマンという偉大な人物を捉え間違えています。一つは有名になったり富を築くことに人生の大きな価値があると見なす誤りです。そしてもう一つは、子供の頃の夢を大人になって実現させることは素晴らしいと考える誤りです。シュリーマンの偉大性は、子供の頃に抱いた大きな夢を断念して、貿易商として生きた点にあるのです。…シュリーマンは貿易商をしていた時は、一切の我がなかったのです。だからいい意味で科学的であり、信念があって、商人の本道に則っていたのです。ところが、長年の夢だっだトロイアへ行ってからは、人間的魅力がなくなってしまった。トロイア遺跡の発掘は、学問的にみても、文化的に見ても、すばらしいことです。しかし、たとえそれがどんなに崇高に見えるものであっても、好きなことであったならば、それは我なのです。その証左がシュリーマンの晩年とも言えるでしょう。我が必ずどこかで理屈をつけて、感情に流され、人間を本道から外させてしまうのです。…元々我のない人間は、使いものにはならないものです。しかし、我を押し通しても、自己の人生は破滅する。このどちらかに決めることの出来ない、物理学でいう不確定性理論のようなところが、生命の難しさであり面白さとも言えるのです」

  執行草舟著「生命の理念Ⅰ」

「…現代の歴史学と呼ばれるものは歴史ではなく、むしろ考古学です。考古学は人間でいえば動物学の範囲、肉体の範囲だけを見ているということです。つまり、物質的に目に見えるもの、確定されたものだけを並べていくものです。…考古学のように新発見があるものでないと、現代の名声には繋がりません。…神話が本来の歴史であり、考古学は現代民主主義の時代しか通用しない科学信仰から生まれた物質的な歴史学なのです。ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』…というのは正式な歴史書です。…現代の学者は、それを単なる空想として閉じ込めてしまいました。ホメロス叙事詩や『古事記』は立派な歴史書なのです。現代の歴史学者のように、考古学的な証拠がなければ歴史とは見なさないという考え方の方が間違っています。考古学的証拠などある方が珍しいですし、そんな物的証拠によって証明されることは、神話の価値に比べてまったくどうでもいいことばかりです。

要するに、真の歴史は科学ではありませんし、科学でないどころか学問でもないのです、従って歴史学という呼び方も間違いです。歴史は神話であり血なのです。ですから、人間の方が歴史に合わせて生きるべきものなのです」

  執行草舟著「生命の理念Ⅱ」

成功哲学が染みついた現代人にとって、氏の考え方は全くをもって受け入れ難い。多くの人の反発も容易に想像がつく。しかし、世間の反論や否定、誤解というものを気にする素振は微塵も感じられない 氏の一刀両断の物言いが、妙に心地よく感ずるのはなぜか。凝り固まった常識に大鉈を振りおろし ミシミシと破壊しながら、各500ページを超すボリュームの本を読み終えた後には、一筋のさわやかな風が吹き抜ける。

<古代遺跡考 及び遺跡見学のポイント>

 一口に古代遺跡といっても多種多様、ピンキリである。ヨーロッパに限定すれば、その状態の良さやその数において、古代ローマ時代の遺跡が他の追随を許すことなくトップに君臨することは疑いようもない。シュリーマンが発見したトロイの遺跡と ミケーネの遺跡は それまでの認識を覆したという点においてインパクトと知名度はあるものの、実際に行って目にするのは 基礎や土台、あるいは門や城壁、お墓の一部で、現実が事前の期待を上回るとは言い難い状態だ。一般的な観光客にはその全体像がわかりにくく、十分な予備知識を仕入れて行くか、あるいはよっぽど想像力のある人でない限り、その全体像を把握するのは正直難しい。むろん修復の手を加えさえすればいいのだろうが、クレタ島クノッソス宮殿のように修復を加え過ぎた揚句、コンクリートばかりで興ざめする結果にもなりかねず、賛否両論、そのバランスが難しい。いずれにしろ両遺跡共、眺めの良い丘の上にあるので 遠くの景色を眺めながら古代に心を馳せるのも悪くはない。

 トロイの木馬で有名なトロイは現在のトルコの西の端に位置する。トルコの田舎だ。ミケーネもギリシャペロポネソス半島の農村地帯の丘の上にぽつんと佇む。古代遺跡には田園地帯が良く似合う。

 さて遺跡見学のポイントをいくつか。まず第一に、ポンペイの遺跡に代表されるような古代「都市」遺跡は、どこもかなり「歩く」ことが大前提としてある。見学を兼ねたウォーキング、中にはペルーのマチュピチュのように軽いハイキングと思った方がよい遺跡もある。山の斜面に沿って階段が続き、一年でも若いうちに訪れた方がよいと言われる所以だ。(同じ「山」でも遺跡ではないスイスのユングフラウカナディアンロッキー観光は拍子抜けするほどに歩かない)そしてそれはエジプトやメキシコのプラミッド遺跡も同様で、遺跡の規模にもよるが、1時間半~3時間程歩く。またマチュピチュのように途中WCのない遺跡もある。持参するバッグは リュックが至便、少なくとも斜めがけで両手の空くバックが無難、足元はスニーカー 少なくともウォーキングシューズ、起伏のあるマチュピチュのような遺跡は足首まであるトレッキングシューズだと更によい。むろんどこもバリアフリーではないし、屋外だから季節によっては雨具必携、またトルコのエフェソスやポンペイなどは大理石や石灰岩の道の照り返しが強いので、夏季は日傘が欲しくなる(但し混雑時は迷惑になるので注)個人的に折りたたみ傘ではなく、長傘をスーツケースに入れて持参することも多い。起伏のある遺跡には杖代わりに使えて重宝するし、本格的な雨が見込まれる場合も 長傘の方が何かと便利だ(但し遺跡ではなく 市内観光で美術館に行くような場合 長傘は持ち込めず、クロークの出し入れに時間を要する場合があるので逆に不便)

 

 

 

アラスカ「アラスカ物語」新田次郎 

エスキモーたちがこのアラスカに住むようになって、何千年になるのか何万年になるのか彼は知らなかったが、その気も遠くなるような長い年月の間に彼等は、暗夜の航法を体験として取得し、彼等の血の中に伝えたのだと思った。それは渡り鳥が、天体の動きと、腹時計によって何千マイルも航行するのとよく似ていた。

・(犬橇について)犬と人のチームワークはエスキモーに関する限り芸術的でさえある。

エスキモーはほとんど野菜を食べなかったが、壊血病になるものはなかった。…生肉を食べるか、食べないかの差であった。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 探検家・植村直巳氏は今もマッキンリーの山の懐に抱かれ眠っているであろう。写真家の星野道夫氏はキャンプのテントを熊に襲われ急死した。しかし、彼らよりもっと前にアメリカの辺境の地・アラスカを訪れ数奇な運命を歩んだ明治の日本人男性がいた。フランク安田の記録である。

「…危機に追い込まれた海岸エスキモーを引き連れて、ブルックス山脈を越え、アラスカ中原の、しかもインディアン地区に移住を試みて成功したフランク安田のことがごく少数の新聞に報道された。それはささやかな記事出会ったが、良識のあるアメリカ人はこれを驚異の眼で迎えた。20世紀初頭の奇蹟であると評し、フランク安田をジャパニーズ・モーゼと称えた人もいた」

 無名の日本人が当地にもたらした恩恵ははかりしれない。強靭な意志と行動力で、多くのエスキモーだけではなく、米国沿岸警備船の乗組員たちの命をも救った。明治という時代の申し子というべき実直な一人の日本人の生きざまは、夜空にうごめくオーロラのごとく異彩を放っている。

また同時に、文中 詳細に記されたエスキモーの文化風習も興味深い。

「文明は人間の生産力を百倍にしたのは確かだが、管理がまずいために、『文明人』は動物以下の生活をしているのだ。一万年前の石器時代と同じ生活を今日もしているイヌイット族(エスキモー)と比べて、衣食住のすべての面で劣っているのだ」

ジャック・ロンドンは20世紀初頭のロンドン貧民街に潜入、執筆したルポルタージュどん底の人びと』で、未開の人々の一例としてイヌイットを比較対象にとりあげ、イーストロンドンの劣悪な環境でその日暮らしにあえぐ人々よりも イヌイットの方が恵まれていると弾劾した。イヌイットは既に一万年前にその土地に適した変える必要のない文化を形づくり、近代まで継承し続けた。しかしながら残念なことに 現代はそれを継承・維持するのが困難な時代である。フランク安田の時代に既にその兆候がみてとれる。彼らの伝統的乗り物である犬橇は、故障したり燃料がなくなればガラクタになりさがるスノーモービルに、伝統的な住居であるイグルーも暖房の効いた現代家屋にとって代わられて久しい。

*エスキモーとはインディアンの言葉で”生肉を食べる人”の意、現在はエスキモーの言葉で”人間”の意であるイヌイットと呼ばれる。

 体当たりの潜入取材のルポルタージュ本田勝一著「カナダ・エスキモー」も、文句なしに面白い、オススメの一冊だ。

  <ノーザンライツ・オーロラ>

「アラスカはアメリカ合衆国に残された最後のフロンティアだったのだ」

  星野道夫著「ノーザンライツ

「アラスカはいつも、発見され、そして忘れられる」とは、アラスカで語られる諺みたいなものだ。1890年代のゴールドラッシュ以後 暫く忘れ去られていた土地は、油田開発で 再発見され、その後 米国人が夏の休暇を過ごすリゾートとして、更に近年 日本人観光客によってオーロラ見学の地として発見されたと言っていいかもしれない。新型コロナウイルスで海外旅行が寸断するまで、米国人のバカンス客と入れ替わるように、秋になると日本の航空会社がアンカレッジやフェアバンクスにチャーター便を飛ばし、日本人観光客が大挙してアラスカの地に降り立った。9月のアラスカは日照時間が除々に短くなり、オーロラ見学と同時に氷河クル―ズや国立公園など夏の観光もかろうじてできるぎりぎりの時期である。(アメリカ人にとってアラスカは、あくまでも夏の山のリゾートだ。従って冬場 都市部のホテル除き その多くは休業する、熊が冬眠するのと同じように。だから最初 日本人がオーロラを見る為シーズンオフにわざわざ飛行機に乗ってやってくると言っても 皆 冗談だと信じて疑わなかったらしい)フェアバンクス郊外にはチェナホットスプリングスという温泉もあって、オーロラ見学で冷えきった身体を温泉に入って温めるという、日本人観光客の欲求を刺激する絶妙な組み合わせが楽しめる。今はフランク安田が苦労して開拓したビーバー村ですら、状況さえ許せばチェナホットスプリングスからセスナで行けてしまう時代だ。

「九月も半ばを過ぎると、フェアバンクスには晩秋の気配が漂ってくる」

「アラスカは厳寒期に入っていた。フェアバンクスはマイナス40度の日々が続いている。アラスカでも一番気温が下がるこの町の冬がぼくは好きだった」

「フェアバンクスの雪は、空から地上へと、梯子を伝うようにいつもまっすぐに降りてくる。雪の世界の美しさは、地上のあらゆるものを白いベールで包みこむ不思議さかもしれない」

  星野道夫著「ノーザンライツ

9月、葉が黄色一色に染まった樹々が続く、フェアバンクスからチェナホットスプリングスに至る道は夢のように美しかった。この時期の寒さは まだまだ序の口、想定内だ。厳寒期ともなるとアンカレッジと違い内陸のフェアバンクスではマイナス30~40度は普通なのだ。

 さて、このオーロラはアラスカ以外でもカナダ・北欧及びアイスランド、ロシア等、オーロラベルトと呼ばれるドーナツ状の北極圏周辺で見える可能性が高い。自然相手ゆえ わざわざ遠くまででかけたところで必ず見れるとは限らない。例えば”マッキンリーの山”であれば 好天でさえあれば見ることが可能だが、オーロラの場合は例え晴れても オーロラという自然現象が発生しなければ見られない、つまりハードルは2段階、当然確率も下がる。行きさえすれば見ることができると安易に希望的観測で訪れる観光客が正直 大変多く、 がっくり肩を落として帰国の途につく人も決して少なくない。それが現実だ。

 それではどこが確率的に最も適しているか? という話だが、まずは晴天率が高いこと、つまり雲が発生しにくい土地、その為には周囲に山がないのが良い。そうした点でカナダのイエローナイフ辺りが適していると言われることが多いが、経験上それは 誤りではない思われる。しかしノルウェーのトロムソも海風のせいか雲がどんどん流れることにより、 空模様が刻々と変わっていくことが多く、高確率であった。北欧はオーロラだけではなく 一般の観光と組み合わされていることが多い為 万が一オーロラが見えなくとも行った価値がゼロということはないが、他の場所ではハスキーサファリとか冬のアクティビティにでも参加しない限り 観るべきものもほぼないので、肝心のオーロラが見られないと本当に落胆してしまうこともある。アイスランドは島、つまり周囲を海に囲まれている為 アラスカやカナダほど気温は下がらないという点で、寒さが苦手という人には好都合と言える。但し北米方面は厳寒とはいえ 防寒具の貸し出しやオーロラ小屋が設置されている等ある意味オーロラ体制が整っている。一方の北欧はそうした設備が整っておらず、要するに一長一短なのだ。

 次に、いつ頃が適しているか? という話だが、オーロラそのものは一年中24時間出現したり 消えたりしている訳で、ただ日中は明るくて見えないだけだ。従って暗い時間帯がければ長いほど、つまり厳寒期ほどオーロラチャンスは増す、ということが単純に言える。更にオーロラには周期的に当たり年があり、これは今の時代ネットで調べれられる。更に暗い夜空にとって月あかりの影響は想像以上で、新月と満月ではオーロラの見え方を大きく左右する。新月に合わせて日程を組めれば文句ない。

 さあ、ここまでくると 一体いつどこへオーロラを観に行ったらいいのか、皆目見当がつかなくなってしまったことだろう。「カリブーと風の行方は誰も知らない」という古いインディアンの言い伝えがあるそうだ。オーロラと風の行方は誰も知らない。縁があればきっと見れるし、なければ見れない…。

 

 

 

 

ボストン「緋文字」ホーソン

 「暗い色の紋地に、赤い文字A」

・…利己心がはたらく時は別として、人間性というものは憎むよりは愛する方を選ぶものだ。憎しみは、もとの敵意をたえず新たにかき立ててその変化を妨げなければ、除々にそっと愛情へと変りさえするものだ。

…憎しみと愛とは本当は同じものではあるかないか、興味深く観察し研究すべき問題である。

・私のように堕落した魂が、他の魂の罪のあがないに何にができましょう。ー汚れた魂に人の魂を清めることができましょう?

・私の魂は迷ってはいるが、それでも他の人たちのためになることをしたい!私は不実な番人で、わびしい見張りの仕事が終わるとき必ずもらえるのは死と不名誉なのだが、今の持ち場を捨てようとは思わない!

・…厳しく悲しい真理を言っておくなら、罪のために一度人間の魂の中についた裂け目は人間である限りは決して元通りにはならないのだ。

・彼は自分の死に方を比喩として、無限に清浄な神の眼から見れば我々は一様に罪人なのだという強く悲しい教えを自分を讃える人たちの心に銘記させようとしたのだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 かつての米国には、どこまでもストイックで厳しい時代が存在した、その証左となる小説。17世紀のボストンを舞台にえがかれているのは当時の問答無用の社会である。我々現代人がいつの間にか失ったもの、つまり深い罪の意識とか恥の概念というものをこれでもかと突きつけられて、なんだか息苦しくなってくる。そしてその息苦しさこそが、その後 米国社会が変貌していった一因かもしれない。

 

「…清教徒というのは最初信じられないほどの厳格な生活をしていました。…一回異性に対する過ちを犯した女性が一生涯、卑猥な女性として赤い印を付けられ続けるという話で、昔の社会はそうだったのです。男女の間違いを一度でも犯したら、もう一生涯立ち上がれない社会が、昔の清教徒の社会だったのです。それが緋文字という赤い印なのですが、その頃の非情な現実を表しているという話です。

…『緋文字』の時代のあのアメリカ人が、理想的な民主主義の憲法と理想的な民主主義の国家を一時期作ったわけです。しかし、その陰には犠牲になった人々もたくさんいた。それから段々と、やはりあれは酷いではないかということで、甘い社会になってきて今のアメリカに至ったわけです。そして道徳はないも等しくなりました」

  執行草舟著「現代の考察」

 

「…現代人が幼稚化しているのは、恥を忘れたからにほかなりません。…豊かな時代になると、多くの人が恥知らずになるのは、死を忘れるか、その悲哀を直視しなくなるからです。恥を重んずる社会と言えば、日本であれば江戸時代や明治時代、アメリカならばプロテスタンティズムが力を持っていた時代です。いずれも社会の表層は暗いでしょう。少なくとも、暗さを受容している。森鴎外の『阿部一族』やナタニエル・ホーソンの『緋文字』を読めば、生命つまり生きることの暗さがひしひしと感じられるはずです」

  執行草舟著「根源へ」

 

『掟のないところには、罪もまたない』(ロシアの革命家・小説家ロープシン)

 掟のない社会においては、人間は罪を感ずることか出来ないのだ。その恐ろしさを、ロープシンの文学は表わす。…罪を感ずることが、社会を成立せしめている。罪とは、文明そのものなのだ。…ロープシンの生きた悲しむべき社会を、いま日本に生きる私も生きているのだ。日本の現状は、掟のない社会に向かって突き進んでいる。その社会では、人々は罪を感ずる心を失っていくだろう。罪は掟の属性なのだ。そして、革命前のロシアのように人間の生を失っていくに違いない。人間とは、罪を背負って生きる存在なのだ。それを乗り越えるために、人間は生きて来た。その罪を感じないならば、我々の人生が立つわけがない。

 執行草舟著「人生のロゴス」

 

 昔 テレビで「ネクラ」という言葉が流行り「軽いノリの明るさ」が良しとされていったその時代の移り変わりを、まだ当時子供だった自分にははっきりと認識できなかった。ただ微妙な違和感と居心地の悪さを感じていたことはよく覚えている。今その答えがわかった。

 

 <チャーミングシティ・ボストン>

「夏には並木がこの遊歩道の路面に、くっきりとした涼しい影を落とす。ボストンの夏は誰がなんと言おうとすばらしい季節だ。…ハロウィーンが終わると、このあたりの冬は有能な収税史のように無口に、そして確実にやってくる。川面を吹き抜ける風は砥ぎあげたばかりの鉈のように冷たく、鋭くなってくる。

 ボストンはチャーミングな都市だ。規模は大きすぎもしないし、小さすぎもしない。歴史のある街だが、決して古くさいわけではない。過去と現在がうまく棲み分けられている。ニューヨークほどの活力や、文化の多様性や、エンターテインメントの豊富な選択肢はないし、サンフランシスコのようなスペクタキュラーな眺望も持たないが、そこにはボストンでしか見受けられない独自のたたずまいがあり、独自の文化がある。…ボストンでは、太陽の光り具合も他の場所とはどこか違うし、時間も特別な流れ方をしている。そこでは光はいくぶん偏りをもって光り、時間はいくぶん変則的に流れる…ように思える。

…言うまでもないことだけれど、あなたがボストンに来るなら、新鮮な魚介料理を食べに行くことは、チェックリストのかなり上段に置かれるべき項目になる」

 村上春樹著「紀行文集・ラオスにいったい何があるというんですか?」より「チャールズ川畔の小径」

 村上氏にとってボストンの土地が住みやすく快適な街だったということが窺い知れる。そしてそれは彼だけではなく多くの日本人にも同じことが言える。実際のところ 東海岸の旅行ではニューヨークでもワシントンでもなくボストンが一番良かったという声が最多であるし、実際 自分もそう思う。ベルギーを訪れた日本人がブリュッセルよりもブルージュを好むのと同じように、要するに日本人好みの街なのだ。北米では稀有な存在の歴史的地区が存在し、風情ある落ち着いた街並み、米国の中では最もヨーロッパ的な街で、治安も良好。そもそも米国の東海岸と西海岸では同じ国とは思えないほどにそのギャップは大きい。ロサンジェルスやラスベガスのように人間のサイズを無視した空間のお化けのような街は、カジノやテーマパーク目的の娯楽にはよくても決して寛げはしない。

 そしてもう一つのボストンの魅力は村上氏も記しているとおり「食」にある。新鮮なシーフード、とりわけロブスターが有名で、クラムチャウダーも美味。「食」の点でも日本人好みと言える。スイーツは別腹という人なら 甘い甘いボストンクリームパイもおすすめ。

 更にチャールズ川の向こうケンブリッジに足を延ばせば、アイビーリーグの一つでアメリカ最古1636年創立の由緒あるハーバード大学があり、キャンパスは観光客でも出入り自由。緑豊かな敷地を散策した後は、ありとあらゆる大学グッズをとりそろえたCOOPでのショッピングも楽しめる。お土産文化が未だ廃れていない日本人にとって、大変有難いスポットだ。

 つまり、そう、現代ボストンに緋文字の時代の面影は ほぼない。せめて往復の機内には「緋文字」の本を携えて乗り込んでみては?…さぞかし良く眠れることでしょう。