至福の読書・魅惑の世界旅行

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日本「土を喰う日々 ~ わが精進十二ヶ月」水上勉

・何ものにも、執着していてはならぬ。…物によって心をかえ、人によってことばを改めるのは、道心ある者のすることではない。

・ただ、黙って、無心につくれば、よろしい。…食事は喰うものであって、理屈や知識の場ではない。

禅宗の僧たちはうまいことをいう。一所不在だと。真の高僧はどこにいても極楽を見出す。酷寒の山にくらしても、文明の都会にくらしても、どこだって己が住む場所だ。随所作主。どこでも主人になれるというのである。

・所詮歴史は憶う人の心以外にない。憶わねば、歴史は消えたままではないか。

・食がなぜかすすまぬという、なぜかを追跡してゆくと、たぶんにこの心理的な要素を見つけることが出来る。

・精進揚げとはつまり、衣を着せて一様にみせかけてはいるが、じつは野菜どもの交響曲ではないか。

・暮れなずむ林間のしじまを、鐘の音は糸になって耳にとどき、松葉の煙がそれをさらに嫋々と長く空にひいて、ともにまぶれ消えるようだった。私は風流というものは、こういうものか、と老師に教わった…

・…めしを喰い、その菜のものを調理するということは、自分のなりわい、つまり『道』をふかめるためだということがわかってくる。一日一日の食事を、注意をぬいて、おろそかにしていれば、それだけその日の『道』に懈怠が生じるだろう。

・…具体の材料と向きあって、物に語りかけてみて、一年経って、それが『精進』であったことに気づいて、いま、慄然とする。やってみてわかるということは、あるものだ。精進しないで『精進』がわかるはずもない。こんなことがわかったというのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 タイトルから思い出されるのは、カレル・チャペックの「園芸家12ヶ月」。しかしこちらは庭仕事ではなく、台所仕事、料理版12ヶ月である。畑の土をしかと踏みしめ背筋がすっと伸びる感のある一冊、同時に風流でもある。2022年11月に沢田研二氏主演で映画も公開、74才のジュリーが好演、みごと主演男優賞を受賞した。

 著者は9才の歳で京都の禅寺に入寺、少なくとも高校生の頃までは学業と並行して寺で様々な仕事を受け持ったらしい。その仕事のひとつが食事の用意、精進料理をつくることだったそうだ。その当時の経験がその後の著者の生活、とりわけ食生活に多大な影響を与えたということは、本を読めば一目瞭然である。

 禅寺では賄い役の人を典座(てんぞと読む)と呼ぶ。開祖の道元が書いた「典座教訓」によると、たかが台所仕事というふうに料理を見ず、いかに料理をつくり、いかに心をつかうか、いかに工夫するか、といった行為が人間の最も尊い行為と説いているそうだ。

 当時、食事の前に唱じていたという「五観の偈」という経、それを著者は次のように解釈している。

一、この食べ物を料理した人たちの苦労を思い、その食のいただけるありがたさを先ず感謝せねばならぬ。それに、この食物がいま、自分の口にいたるまで、いろいろな人の世話になり、手数もかかっているのだから、一粒の米も無駄にできぬ。

ニ、こんなありがたい食物を受ける資格があるだろうか、と常にこれをかえりみて、心を正さねばならぬ。

三、修行とは心の汚れをきよめることだ。仏のいう貪・瞋・癡の三毒をはらいのけることだろう。この三つの中で、いちばんわるい心は物をむさぼり喰うことだ。そのむさぼる心を克服するために、いま、この食事をいただくのである。

四、この軀を保持するために、よいクスリと思うて頂戴せよ。

五、仏と同じ悟りをひらく、そんな境地に達するためにも、この食物をいただくのである。

なんて謙虚なのだろう。現代人が失ってしまったものは数々あれど、謙虚さもそのひとつに違いない。そして最も悪いことは、むさぼり喰うことと喝破する。むさぼり「喰う」だけではなく「貪る」というもっと広義な視点でこの悪徳について語られた意見を紹介したい。

「悪の本当の根元は貪りの中だけにある。…人生とは、貪ることさえなければ、他人からいくら手助けしてもらってもよいのだ。どんなに人に助けてもらっても、どんなに人に迷惑をかけても、いかに人を泣かせても、いかに人の物をもらっても、この貪る心と行ないさえなければ、それで良い。人間は誰でも、他人に助けてもらって今日がある。人から与えられた愛情や友情がわからなければ、その者は貪る人間となる。…わかれば、人は貪ることはしない。そして、必ず恩を知る。…貪る状態さえ脱すれば、人間は必ず自立する。自立するとは、すなわち自己が、他者や社会の役に立つ人物になることを言う。他者の役に立つとは、自分から与えるものが何かあることを指す。何も物とは限らない。時間でも情愛でも、知識でも何でも良い。…貪りは、与えられ続けていることをわからぬ幼児性から起こる。…貪りは心の中でいくら考えても絶対にわからぬ。貪りから抜け出し、一人前の人間になるには、実践しかない。…現代は本当に大変な時代に差しかかっている。民主主義と科学思想の誤った理解、享楽主義、平等思想、これらの社会現象の中には、貪ることの自覚を阻害する要因ばかりしかない。まさに現代ほど、貪りに冒されやすい時代はいまだかつてなかったと言えよう」

  執行草舟著「生くる」より

        <日本料理>

 食生活だって三つ子の魂百まで、日本で生まれ育った人にとって日本食は人生を彩る欠かすことのできない要素のひとつだろう。一年の半分近くが海外という生活を長いこと続けてきたせいか、慢性的に和食欠乏症気味だった。年齢を重ねるにつれてその傾向は強まり、近年では現地で自由食があっても新たに美味しいレストランを発掘しようという気力は失せ、和食レストランに足を運ぶことが多くなっていた。大して美味しくもなく、しかも地元の食事より割高であるにも拘わらず、だ。

 ところが今回コロナ騒ぎで仕事がなくなり、ずっと日本にいることになった。それの何が嬉しかったかと言うと、日本食をいつでも好きなだけ食べられる環境になったことだ。毎日家でご飯を食べるようになり、炊きたてご飯とおみそ汁の美味しさに当初は狂喜した。むろん最近はそんなこともなくなり、和食は極日常の風景と化した。今更言うまでもないことだが、日本食が美味しいということを今では世界中が認めている。継続する円安と物価の違いにより、日本を旅する外国人旅行者にとって日本の外食はもはや奇跡と言っても良い域にまで達していると言っても過言ではないだろう。コロナ以前からワンコインでそこそこ美味しくてお腹いっぱいになるなんて国は、少なくとも先進国では日本を除き皆無だったのだ。コロナも収束し徐々に日本人渡航者が復活しつつある今、我々は海外での外食物価に打ちのめされると同時に、改めて気づかされるのだ。日本の外食産業が多くの犠牲の上に成り立っていたということを。

 そんなことを考えつつ、その一方では「土を喰らう十二ヶ月」の映画を観た後に何を食べようかとウキウキしながら考える自分がいる。しかしそれも束の間 映画を観た後は、外食ではなく自分できちんと調理をしようという気分にさせられた。映画に登場した料理はいずれも粗食、精進料理、いわゆるべジタリアンメニューだ。しかも庭先や山で採れたものをすぐ調理して食べるというフードマイレ―ジゼロの、ある意味大変贅沢な料理でもあった。とりわけ炊きたてのご飯は何ものにも勝る、嗚呼、瑞穂の国ニッポンに幸あれ。

 余談だが、30年以上前 真夏の永平寺を訪れた時の印象が、記憶の片隅に焼き付いて離れなかった。あれほど無数の蝉が鳴く場所を他に知らない。最近 念願がかない、参禅体験で永平寺に一泊した。出された精進料理は、自家製のたくあんひとつとっても全てが美味しく五臓六腑に染みわたった。