至福の読書・魅惑の世界旅行

読書の海・世界の空  海外添乗歴30年  元添乗員の読書&海外旅行案内

日本「ジュリーがいた」 島﨑今日子

「日本人男性はこうでなければならぬとするカチカチのこだわりに、…たったひとりでなぐりこみをかけた」(アートディレクター談)

「彼が作った『叫び』(という曲)そのものなんですね。歌で死にたい。歌で死にます。彼は、今もそのとおりに生きていると思います。…若い頃は、体制側にいるってちょっとよくないなと反発するところはありました。でも、だんだん自分がいろんな責任を問われる立場になると、当然の如く、大変さがわかってきます。降りられない者はどう生きていくのかという美学を感じますね。あの人が18歳の時からそれをやっていたというのは驚きです」(宗教学者談)

「…俺は俺だとやっていけるところが凄い根性です。権威に媚びることがなく、そういう面では気が合ったし、やりやすかったんです。…あくまでエンターテイメントの一部としてやるときは徹底してやる。…普通なら今までのイメージにしがみつくものですが、それを捨てていくのが凄い。あの人にはロッカーとしての矜持があって、根性がある」(衣装デザイナー談)

「ほとんどな~んにも喋らない。黙ってるだけ。…透き通った男前、めちゃくちゃ綺麗やったよ。…自分が男前であることが嫌やったんやないかと思う」(プロデュ―サー談)

「あまりにも綺麗な声でボリュームがあり、はっきり言葉が聴こえて。それまでの我々の歌手や他のバンドの歌手とは、全然違いました。…歌の上手下手ではなく、生れつき持ってるものが違った」(作曲家談)

「…生活態度なんか、普通の人以上に普通というか、まじめだしね」(プロデューサ―談)

「彼の消化力は凄いんです。人の言うことを理解して本質をつかもうという姿勢がある。多くは語らず、彼からこうして欲しいと要求してくることもなかったけれど、普通のアイドルや普通のスターではなかった」(カメラマン談)

「ジュリーの仕事で後味の悪いことって一切なかった。決断したことはやるし、嫌なことは最初に嫌だと言って、途中で覆すことはありませんでした。男らしいなと、いつも見てました。……貫いたからカッコよかったんです。……彼にはブランド志向がありません。大物の人って、自分の見合うだけのネームバリューを求めがちですが、彼にはそれがない。……沢田研二と我々スタッフが違うのは、沢田研二は一生、沢田研二であり続けなければならないんです」(音楽プロデューサー談)

「彼には才能だけではなくて人間力がありましたから、誰もがジュリーのためにとなるんです。僕も、マネージャーの何たるかを彼に学びました。彼がいなかったら今の僕はありません」(元マネージャー談)

「視聴者に楽しんでもらうことへの意識の高さ、その姿勢に脱帽したものです。…若いアイドルに対して俺はお前らより上だなんて態度を見せたことは一切ないですよ。…我々に大御所扱いを求めることも、ありませんでした。だから尊敬できるし、誰もが沢田さんを前にすると自然と敬語になったんです」(TV局ディレクター談)

「マイクやカメラを離れたところの沢田さんは物静かでストイックで、簡単には妥協せずに自分の思いを貫く方だったので、本気で向かわないと相手にしてくれません」(ラジオ番組ディレクター談)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ジュリーこと沢田研二の全盛期を中心に直近の活動までを網羅した決定版の一冊。彼の本でありながら新たな彼へのインタビューは皆無、過去に発売されたロングインタビューをまとめた自伝と過去のラジオ番組での発言から拾った言葉や新聞記事がところどころに引用されるにとどまる。多くを語らない当人にかわり、近しい存在であった関係者・スタッフ達が饒舌に語る。マネージャー・付き人・プロデューサー・アートディレクター・衣装ディレクター・作曲家・TVやラジオ番組の制作プロデューサー、はては宗教学者まで。ある意味本人自身が語る以上に、その人となりがすけて見えてくる。

 著者は言う。「…陰も毒もある美貌と佇まいがあったからだが、もう一つ、…早くから他者の視線に自分を委ねることへの覚悟があった」のだと。

 そしてひとりの歌い手の半世紀を超す歴史からは、昭和の世相を映し出す鏡のように、それに重なる時代背景が垣間見えて興味深い。何よりこの本を読みながら、1960~1970年代という時代が持つ猛烈な熱量に圧倒される。半世紀前の日本と現在の日本、徐々に進んだ変化は気づきにくいが、改めてその変貌ぶりに驚かされる。明確な理由もわからないままただぼんやりとした60年代への憧れみたいなものが、この熱量によるものだったのかと腑に落ちた瞬間だ。みんな気力に満ち溢れ勢いがあり、仕事に邁進していた時代。かつてジュリーは次のように語っている。「遊ぶ時間がなくても、仕事が遊びより面白かった」と。元マネージャーも「コンサートひとつとっても、みんな、全身全霊でやっていたんです。ジュリーは完璧主義者で…1ステ―ジ1ステージが真剣勝負でした」と言う。更に長いこと沢田研二のバックを務めた井上堯之バンドの後身の会社には「人情味があって、いいものを作るためなら手弁当でもやるよという人が集まっていました」と言う。全盛期のジュリーはその真剣さに感化されたスタッフ達が互いに共鳴し合いながら相乗効果によって、より大きく飛躍できたのだろう。

「我々の生命活動の痕跡は、我々の成した仕事の中にしか残らない。仕事を離れたあらゆる価値は、人間生命にとっては誤魔化しでしかないのだ。仕事とは文明と自己との葛藤である」 執行草舟著「現代の考察」

2022~2023年ジュリーのコンサートツアーのタイトルは「まだまだ一生懸命」だ。推して知るべし、昭和の遺伝子は健在だ。

 ジュリーにまつわる数々のエピソードの中で、群を抜いて印象的なのが、次のエピソードだ。「今ここに封筒が百枚あって『沢田、明日まで住所と名前書いて、切手貼っておいて』と言われると、あいつは『なんで?』とか聞かずに『はい』と言って、それを一生懸命100%、120%こなす、沢田はそういうやつなんだ。自分の仕事を確実に成し遂げるというプロ意識の持ち主で、本当に真面目で謙虚なやつなんだよ」井上堯之バンドの後任バンドメンバーとしてジュリーと仕事をするにあたり、当時のマネージャーからその心構えを教えられた際の話しとして吉田健氏が語るこのエピソードにノックアウトされた。もうひとつ興味深いエピソードがあったが、長くなるので詳細は割愛する。簡単に言うと当時台頭してきたニューミュージックと呼ばれたジャンルの歌手の扱いに対するTVの姿勢に沢田研二が激怒した話しだ。興味があれば本書を手にとって頂きたい、ジュリーファンでなくとも面白い。

 男性ながらに化粧なんかして…という彼のイメージや先入観を払拭するエピソードも複数取り上げられている。演奏を終えた帰りに難波で喧嘩になり、一発でチンピラを打ち負かしたした沢田の蹴りを見た元タイガースのメンバー・瞳みのる氏は次のように語る。「沢田の喧嘩の強さが脳裏に焼きついて、以後口喧嘩はともかく、彼と殴り合いの喧嘩は絶対にしないように決めた」と。一方当の本人は「仁義なんてないから、喧嘩なんて。先手必勝です」と涼しい顔で語るにとどまる。

 同じようなエピソードはショーケンこと萩原健一の自伝のなかでも語られている。大阪での仕事が終わると、あろうことか暴力団に拉致されたそうだ。ショーケンとジュリーの他に堺正章布施明の計4人。無理矢理車に乗せられて連行されたクラブで「歌え!」と強要された。その緊迫した状況で「歌えないよ」とキッパリ断ったのがジュリーだったと。「偉い、こいつ、度胸あるなあ」と当時の思いを吐露している。容姿を抜きにして男でも惚れそうな話しではないか。事実ジュリーには業界の男性ファンが多数いたという話しを何かの記事で読んだ。いずれにしろ今の時代ではありえない、昭和を象徴するような仰天エピソードだが、若い時分のジュリーの肝の据わりっぷりが半端なくて、ノックアウト三連発だ(笑)

    <昭和の日本を振り返る>

 飯倉のキャンティが当時の著名人の溜まり場として登場している。当時は今のように本格的イタリアンレストランというものが普通に存在する時代ではなく、自分が足しげく通えるのはせいぜいイタリアントマト止まりだった。学校帰りに中華街の南門近くにあったイタトマに立ち寄ってはよくケーキセットを食べたものだ。ユーミンの曲に登場した横浜山手のドルフィンも有名だった。キャンティにしろドルフィンにしろ昭和を象徴する店の一つだ。

 学生時代は元町にあった昔ながらの喫茶店でバイトをした。当時既にバブルの波が押し寄せつつあり、やがてその喫茶店もお洒落なバーガーショップに衣替えをすることとなった。バブルの申し子のような喫茶店のオーナー夫婦は、バイトも含めたスタッフ全員をお洒落な海沿いのプチホテルの広い部屋を借り切って贅沢な打ち上げを催してくれた。あの頃から風情ある個人経営の喫茶店は1軒また1軒と姿を消し、今やチェーンのコーヒーショップとファーストフードが席巻しているのは誰もが知るところだ。

 こうして安保闘争学生運動の時代からしらけ世代と呼ばれる人々を生んだ時代を経てバブル期へと時代は移り変わっていった。20代がバブル期だった自分は、良くも悪くも有り余るほどのその恩恵を享受した一人だ。ダンパ(ダンスパーティー)の企画書まがいの紙1枚を企業にアポなして持参すると、いとも簡単に在庫の賞品をクイズの景品として無償提供してくれた。そしてそのダンパで儲けたお金は、サークルのメンバーみんなで出かけた一泊二日の旅行費用に消えた。その当時 卒業旅行と言えば海外を指したものだ。学生時代にまともに勉強した記憶はほぼない。日本国民一億総出で、浮かれきっていたということが、今にならわかる。しかし渦中にいながらにしてわかった人が果たしてどの位いたのだろう。いずれにしろこんな風に昔を懐かしがるのは、年をとった証拠だ。

 そしてその頃から沢田研二を取り巻く状況は彼自身のプライベートを含めて大きく様変わりしていった。もてはやされた時代ばかりではなかったし、突出していたが故にあれこれ揶揄されることもまた、他のスターの比でなかったことは想像に難くない。また下手に言い繕ったりしない分、誤解を招いたことも少なくなかったであろうことが、本書からも伺い知れる。

 しかし若い頃に語った希望を実現させ半世紀を超えた今も尚 現役という事実、しかも75歳を迎えるその年齢で今だに2万人のアリ―ナ席を完売させるという事実はとてつもなく重い。「継続は力なり」その正しさを証明してみせた彼の覚悟と根性に惜しみない拍手を贈りたい。

 

 

 

 

ネパール「王とサーカス」米澤穂信

・確かに信念を持つ者は美しい。信じた道に殉じる者の生き方は凄みを帯びる。…信念を持つこととそれが正しいことの間には関係がない。

・自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。

・…彼の哲学が完成品である必要はないのです。…我々は完成を求めていると言いました。ですが、時代の変化や技術の進歩に応じて不断にアレンジが加えられ続けることこそが、既にして完成なのだとも言えはしないでしょうか。

・尊さは脆く、地獄は近い。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 2001年にネパールで実際に起きた王室の殺害事件をミステリー小説の中に盛り込んだ長編フィクション。2001年6月1日ネパールの首都カトマンズの王宮で王・王妃をはじめとする王族が9名が銃弾に撃たれ死亡、犯人とされる王子も自殺を計りその後死亡、合せて10名が亡くなるというセンセーショナルなニュースは、当時日本をはじめ世界中を駆け巡った。その後難を逃れた王の実弟が後を継いで即位、しかし当初から弟のクーデターではないかという説が根強い。自殺と発表されている王子の死にも不自然な点が多々あると言われているが、真相は未だに藪の中、闇が深そうな、全くをもって不可解な事件であった。しかしながら20年を経た今となってはそれも過去の話、しかも事件から7年後の2008年にネパールは共和制に変わり、ネパール王朝はもはや存在しない。

 この事件が起きた時たまたま取材旅行でネパールを訪れていた駆け出しの女性記者が話しの主人公、架空の人物だ。正直なところ残り1/3位で話しが展開してからはページの進みが速くなるが、前半2/3は少々もたついた感が拭えない。しかし丹念な描写がカトマンズの雰囲気をよく伝えており、ネパール行きの機内で読むにはおすすめの一冊だ。

 また一人のジャーナリストとしてあるべき心の葛藤が吐露され、それは昨今の週刊誌の廃刊やら暴露記事やらとあいまって考えさせられる点も少なくない。

「いま我々は、目の前の自分の現実問題に向かうことは減り、マスメディアとインターネットが提供する情報によって思想を統制され、共通の幸福感を植えこまれ、仮想現実に生きることを選ぶようにされてしまった。…いまのグローバリズム経済を推し進める文明の中では、もう我々はやり直すことはできない。特にマスメディアの発達による網の目状の思想統制と情報の独占による支配が徹底しており、全世界どこにいても逃れることはできない。…現代文明はその力を、マスメディアの大衆心理操作によって維持発展させている。…何をやっても「コンプライアンス」だ「犯罪」だと言って、マスメディアが飛んできて、みなを突き上げる。…そのコンプライアンスを一番守ってないのがマスメディア自身ではないかということに尽きる。…自分ができていない人ほど他人を批判する。…『信ずべき真実がないとき、人は嘘を信ずるのである』そうラ―ラが叫び続けた。…我々は信ずるものを欲しているのだ。その隙間に、現代の国家とマスメディアが入り込んできた」

  執行草舟著「脱人間論」

 随分前にTVを処分した。しかしTVにとって代わったのがインターネットだ。つまりTVを処分したところで同時にパソコンやスマホも処分しない限り、残念ながら今の生活は変わらない。氏の言う通りマスメディアにがんじがらめで抜けられそうもない。

    <ネパールの3つの記憶>

「ネパールは、ほかに旅したどんなところとも違った。人にたとえるなら、マイペースが過ぎて風変わりの域に達している人、という感じである。もちろんこれは単なる私感で、そんなふうに思わない旅人だっていっぱいいるだろうけれど」

  角田光代金子光晴を旅する」より

 いかにも旅の印象は人それぞれだ。私にとってのネパールは、山のリゾートポカラやトレッキングの聖地ジョムソンのインパクトが強い分、相対的に首都であるカトマンズの印象は薄く、 ①スリル満点ジョムソン往復の小型飛行機 ②マルファ村のリンゴジュース ③ハイキング途中のWC の3つで完結していると言っても過言ではないかもしれない。

 ジョムソン空港は左右に山が迫る川の谷間に建設された小さな空港だ。海抜2700mほど、滑走路の長さは500m余り。ネパール第2の街ポカラを離陸すると間もなく山の谷間を飛行する。左右の山が驚くほど近い。『凄っ!映画みたい…まるでインディ・ジョーンズ…』窓の外の景色に度胆を抜かれた。むろんこれまで降り立った空港の中では、突出して離着陸の難易度が高いに違いない空港だった。実際、過去10年の間に少なくとも4回の飛行機事故が発生しているらしい。思えば、あの頃は恐いものなしだったし、そもそも危険な空港という認識すら皆無だった。参考までにヒマラヤ遊覧飛行は思ったよりも山が『遠く』、ジョムソン往復の機内からの景色の方が迫力という点においては勝っていた。

(少々話しがそれるが、一度米国の空港で機体が地上を離れる直前にパイロットが離陸を取り止めたことがあった。そして機内アナウンスでこう言い放った。「もう一度やらせてくれ」と。まあそんなこともあるさ…と大して気にとめていなかったが、その後同行したお客様の一人にこっそりこう告げられた。「あの時パイロットの判断が一秒でも遅れていたら離陸に失敗して墜落していたよ」と。今冷静に振り返ってみると、よくもまあ無事に帰国できたなと思う旅は両手に余る、旅はいつでも綱渡りだ)

 ジョムソンの村で泊ったホテルも空港に負けず劣らずなかなかのインパクトがあった。お湯が使えるのは夕方の2-3時間だけ、夜の客室は冷蔵庫どころか冷凍庫のように寒く、あるだけの毛布をかけてもまだ寒い、しかもその毛布がまた異常に重く身動きできない。朝食は設備故障で温かい料理も飲物も出なかった。まるで罰ゲームの様だった。(今はどんなだろう?)

 そのジョムソンから川沿いに半日ほど歩くとマルファという小さな集落に辿り着く。休憩がてらにそこの茶屋で飲んだリンゴジュースが別格だった。なかなかサービスされないことにしびれをきらして様子を見にいくと、昭和の時代に見かけたような貧弱な家庭用ジューサ―でジュースを作っていた。やっとでてきたリンゴジュースを口に含むと懐かしさが口いっぱいに広がった。それは幼い頃に風邪をひくと必ず母親が食べさせてくれたあのすりおろしリンゴと同じ味だった。音楽同様、食べ物も記憶とセットになっていることを思い知った瞬間だ。何を隠そう辺り一帯は日本のNGO活動の結果、当時既にリンゴの里として知られていた。またチベット旅行記で知られる河口慧海ゆかりの地、彼が泊った宿の一部が記念館になっている。

 更にもう一つ強烈なインパクトを残したもの、それはポカリ滞在中に行ったハイキング途中のWCだ。余りの壮絶な状況に思わず我慢してしまったという、これまた罰ゲームのようなWCであった(笑)   

 最後にネパール旅行で何より重要なこと、それは山が見えやすい乾季(日本の冬)に行くということ、雨季は雨雲で山が見えにくい。要するにネパールに限らず「自然」が主な目的となる旅行ではその土地のオンシーズンに出かけた方が後悔は少ない。例えばボリビアのウユニ塩湖はネパール以上に同じことが言える。一方都市部で美術館とか宮殿の見学が主たる目的ならば、オフシーズンの方がむしろ快適な場合もある。晩秋のロシアはどこも貸し切り状態で、夏の混雑ぶりに辟易していた身にとっては天国さながらであった。

 

バリ島「バリ島物語」ヴィキイ・バウム

・…古き書物は、それを正しく理解したときはには、短剣と同じように強いものです。私はそれから一つのことを学びましたーーそれは私が、…結局は、何ものでもないということです。私は鎖の一環、橋全体のうちのたった一本の竹棹にすぎません。私は偉大なる先祖から受けたものを子孫に伝えなければならない。…私は私の生まれが私を置いた場所にしっかりと立たねばならないのです。私が書物の中に読んだのは、このことです。

・一諸に死ぬことは簡単なことのように思われた。大いなる愛はいつも死と別離と紙一重だ。

・なぜならば、このように神々は定め給うたからであるーーこの島は神々のものであって、人々はただ借りているだけなのだ。

・しかしこれは金銭の問題ではない。我々の矜恃と威厳と誇りとが危機に瀕しているのだ。「私はたとえ戦争になっても結構だと思います」と彼は言った。

・「それは神々の思し召しだからだ。…私は先祖の一人の罪の償いをしているのだ」…運命を認めることを拒絶した時はすでに過ぎ去っていた。いま彼はそれを堪えている。

・彼らは病者だった。追放され、永遠に呪われていた。しかし生活は続けられていくのであった。…彼らのうちに生命の流れを見てとることができた。地の下に泉のこぼれるのを聞くことができるのと同じように。

・戦争だというのに平和な空気が漂っていた。…「なんとすがすがしい空気だろう」…彼らは水をたたえた水田のあいだを進んで行った。田には大空が完全に映っていて、そこには緑色の葉先がのぞいていた。…「私は幸福だ」

・「彼らは我々には決して理解することのできない勇敢さと矜恃とを持っているんだ」「そんなやつらを射たなければならんのは我々にとっても愉快ではない」「しかしやななければこっちがやられるのだ。やつらは気が狂っていた」「聖なる狂気です」

・彼の娘は死に、父親は殺された。しかし彼の心は白人の知ることのない満足で満たされたのであった。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 インドネシア・バリ島が舞台の史実に基づいた小説で、バリ島の風土・ヒンズー教の風習が驚くほど丁寧に描写され、そこに愛と欲望、希望と絶望、忠誠と服従、そして慈悲…あらゆるものがちりばめられた約600ページの長編。

 その9割がイスラム教というインドネシアにおいて、バリ島は9割がヒンズー教徒である。農民から高僧、領主まで島民の思想に深く影響を与えているのはヒンズー教の教えであり、その聖典バガヴァット・ギーターの一節が複数引用されている。王や領主と共に戦い、殉教をもためらわなかった多くの側近や農民達の行動の背後にあるものは、この思想である。

『心賢き物は行ける者のために悲しまず、はたまた死せる者のためにも悲しむことなし。すべて生くるものは永遠に生く。消えゆくはただ外殻のみ、ただ滅ぶべきもののみなり。精霊に終わりなし。永遠にして不死なり』

『義務と服従とを捨つる者に名誉なし。気高き血統の末たる名誉を失うは死よりも遥かに悪し』

『終りと言い、始めと言うはこれ夢に過ぎず。霊魂は永遠なり。そは生誕と死滅と変化とを超越せるものなり』

 1906年バリ島バドゥン王朝はオランダ軍によって武力制圧され、その2年後の1908年バリ島は完全にオランダ植民地政府の支配下となった。本書でも取り上げられた島民の死の行進に向けられたオランダの残虐行為に対し、世界各国から非難の目が向けられた。本書の話はオランダの武力制圧で終わっているが、その後オランダは悪いイメージを払拭しようと、バリ島の観光開発を推し進め、現在のリゾート・バリの原型が急速に形作られた。しかしその後、第二次世界大戦、更に日本の統治へと続くのだ。

「”最後の楽園”というキャッチフレーズで、バリは欧米の人々が夢見る観光の島となった。…バリ観光の流行は1920年代に始まり、30年代までには絶頂期を迎えていた。

…世界情勢は急変していた。…日本軍による真珠湾攻撃と米英蘭への宣戦布告。…世界は一挙に大戦に突入した。その後、バリは4年間の日本統治時代を迎える。音楽や踊りの観客は日本の軍人となった。バリの芸能は神の代わりに大日本帝国に捧げられるようになった。

…何事も起こらないような穏やかな街の片隅でも、物語は次々に生まれ、そして、ひっそりと消え去っていくのだ」

  西江雅之著「異郷日記」

 現在のバリ島には過去にこうした悲惨な歴史があったことなど微塵も感じられない。長い歴史の中でバリ島だけでなく日本始め世界中で繰り返されてきた生と死、戦争や小さな諍い、喜びや憎しみ、人々の記憶に残っていない無数の物語があったということ、そして人々の生活はこれからも面々と続いていくであろうこと…そんなことをしみじみと考えさせられる良書であった。例えバリに行く予定がなくてもオススメしたい、しかし一旦読んでしまうと行きたくなってしまう本である。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 私にとってバリ島は特別な場所だ。何しろ初めて訪れた海外がバリ島なのだ。20才直前の春休み、3月だった。到着日、そしてその翌日と猛烈な雨が終日降り続き、とんでもない所に来てしまったとひどく後悔したのを今でもよく覚えている。しかし間もなく雨は止み、その後は帰国する迄連日快晴続きで、すっかり日焼けした。そう、あの猛烈な雨は乾季の訪れを告げる、雨季の最後によくある締めの大雨だったのだ。当時の若い自分はそんなことも知らずに出かけて行った。そもそもバリ島を選んだ理由は、滞在期間が2週間と長いのに他より安く、しかも朝食付きだったから、なのだ。要するに何処でも良かった(笑)

 今から40年ほど前のバリ島には日本人はまだサーファーくらいしか訪れる人がいなかった。しかし欧米人には既にアジアの楽園リゾートとして認知されており、ホテルやレストラン、ディスコ(現在のクラブ)等、それなりに存在していた。それでもまだまだ素朴な田舎の島という風情が、そこかしこに残っており、物価もびっくりするほど安かった。

 むろん現在のような高級ラグジュアリーホテルはまだなかったし、とりわけ貧しい学生旅行で使用している我々のホテルは、ホテルというよりも民宿といった風情で、WCと一緒のシャワーは常に水がチョロチョロとしか出なかった。竹を編んだだけの壁の隙間から差し込んだ外の光が薄暗い室内をぼんやりと照らし、その壁にはいつもヤモリがじっと張り付いていた。が、何しろ初めての海外で他に比べるものもない、こんなものかとすぐに慣れた。オレンジやパパイヤ等毎朝注文してからその場で絞ってくれる朝食のジュースは、ネパールの山奥で飲んだリンゴジュースと並び、忘れられない味だ。もう名前も忘れてしまった沖合の無人島、そしてその島を取り巻く透き通る海。夕暮れ時のビーチで東から西へ深紫色の夜が滲むように忍び寄ってきた夜空。昼間通りを歩いていると必ずどこからか聞こえてきた打楽器ガムランの柔らかな音色。バロンダンス、レゴンダンス、そして暗闇に浮かび上がるケチャックダンスの不思議な高揚感。あの時の自分は気づけなかったけれども、確かにそこは楽園だったと今ならわかる。

「ガラス窓を開けてベランダに出ると、一気に真夏の暑気に包まれた。眼下には、巨大な葉をした羊歯シダが、小さな草花を覆い隠すかのようにして葉を広げている。重たそうな暗緑色の茂みが、石段の脇に連なる。吹き上げる風に乗って、蝶が一匹、また一匹と空を昇る。屋根で山鳩が鳴く。何処からか、寝坊のニワトリの刻の声が聞こえてくる。目の前の茂みの細い枝の合間を、地味な色の翼をした小鳥が二、三羽、小さな声でさえずりながら潜り抜ける。ツバメが猛スピードで空を切る」

「”伝統”とは未来である。”伝統”は実際に行動に移さなければ意味をなさない」

  西江雅之「異郷日記」

著者は言う「しかしバリは変わっていない。どんな侵略にも抵抗して、古い法則に従って生きている」と。

 

ハワイ 「ホノルル」サマセット・モーム

・かしこい旅行者は、空想だけで旅をする。…こうした旅こそは、炉辺に坐ったまま、いながらにしてできる最上の旅であろう。夢を壊されることだけは、まず絶対にないからである。

・ヨーロッパからは、おそろしく遠いし、サンフランシスコからでも、長い長い船路の果てに、やっと行きつくのだ。それにホノルルという地名からしてが、なんともいえぬ魅惑的な連想をそそるので、事実はじめて着いたときは、ほとんどわれとわが眼を信じられないくらいだった。…なんのことはない、典型的な西欧都市なのだ。

・街を行く人々の群れは、ほとんど想像を絶した人種の陳列だ。…いわばここは、東洋と西洋の出会いの場所なのだ。…信じる神も別なれば、価値観も異っている。共通なものといえば、それはただ二つの情熱―愛と飢えだけだ。…空はあくまでも碧く、大気はあくまでも柔らかいというのに、なぜかこうした群衆の中には、火のように激しい情熱的なものが、まるで脈動のように波打っているのを感得できる。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 サマセット・モームといえば、なんといっても彼の代表作であり、世界的な短編小説の傑作でもある「雨」が思い浮かぶ。雨が降り続く南国の、その湿度すら体感できそうなほどに上手い秀逸な短編。

 一方「ホノルル」は「雨」ほど広く知られた小説ではない。しかし最後に「う~ん、そうきたか…」と読者を唸らせる構成、話しの組立ては「雨」同様。しかし「雨」では、それ以外のタイトルが全く考えられないほどに雨が小説の中で絶妙な役割を果たしている一方、「ホノルル」ではその舞台をオアフ島・ホノルルから別の島に置き換えても全く影響しないであろうほどに話しはほぼ船中で完結している。従って日本人の多くが抱いているであろう、あの明るく楽しいリゾート・ホノルルをイメージして読むと全然違う。今風に言えばいわゆる都市伝説・地元民の言い伝えをテーマに「雨」同様、登場人物からすると知らなくてもよかったという結末、人間というものは…と考えさせられる佳作だ。

「…強調しておきたいのは、われわれの多くは実は真実なんか知りたくないということだ。…できれば真実を直視したくない。というのも、真実は往々にして苛酷なものだからである」

 片田珠美著「自分のついた嘘を真実だと思いこむ人」

    <アイ ラブ ハワイ>

 ハワイに一度でも行ったことがある日本人でハワイを嫌いになる人っているのだろうか。万が一いたとしたら余程の偏屈かへそ曲がりではないかと思ってしまう。とにかくハワイは理屈抜きに良い。初めてハワイに行って着いたとたん大好きになった、本当に着いて直ぐに。

 常夏の島ハワイというけれど赤道直下ではないから、夏と冬では思った以上の気温差がある。8月は「暑っ!」2月は「えっ?意外と涼しい…」という程度に異なる。そうはいっても気温と湿度のバランスが絶妙なので寝過ぎても目覚めた時に頭痛がするようなこともない(と聞いて大いに納得した)ワイキキはほぼ年中晴れているが、逆に雨の名所つまり年中雨という地域も存在する。小さな島だが変化に富んでいる。

 ハワイの朝食によく並んでいるパパイヤ、ライムをさっと絞って食べるパパイヤが大好きだ。いくらでも食べられる。(昔 現地のガイドさんが『ハワイではパパイヤはそのへんにいくらでもなっている、豚の餌だ』と言ったのが未だに忘れられないが…)またその昔ノ―スショアで食べたクアアイナのハンバガーが、それまで食べたハンバーガーの中で最も美味しかった。(その後にできた日本支店のハンバーガーとは全然違う!)…余談だが、米国のレストランに入ってこれといったメニューが見当たらない時、下手に肉料理・魚料理を注文するよりも、むしろ当たり外れが少ないハンバーガーを頼んだ方が間違いないという認識でいる…参考までに。

 ハワイといっても日本人ばかりなのはワイキキとアラモアナ位なもので、一歩外れたらやはりそこは米国、オアフ島以外の離島に行けば更に顕著、米国人ばかりだ。そもそもコロナ騒ぎで日本人観光客は激減、やっと終息したところで米国の物価上昇に加えて円安傾向が継続。残念ながら日本人にとって現在のハワイは、かつてのハワイほど身近な存在ではなくなってしまった。

 それなのに、こんなことを書いているとハワイに行きたくなってくる。だが、今のところ行くあてもなし、仕方がないのでモームが断言するように空想で行こうか…

アジア「マレー蘭印紀行」金子光晴

小島のしげみの奥から、影の一滴が無限の闇を広げて、夜がはじまる。

大小の珊瑚屑は、波といっしょにくずれる。しゃらしゃらと、たよりない音をたてて鳴る南方十字星が、こわれおちそうになって、きらめいている。

海と、陸とで、生命がうちあったり、こわれたり、心を痛めたり、愛撫したり、合図をしたり、減ったり、ふえたり、又、始まったり、終わったりしている。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 昭和3年から7年にかけて、およそ4年にわたるアジア放浪の旅の記録・回想記である。年に1回・500ドルまでの持ち出し制限付きで日本人の海外渡航が自由化されたのが昭和39年、それより30年以上昔に遡る。昭和4年にツェッぺリンの飛行船が、6年にリンドバーグが日本に立ち寄った、まだ船旅が当たり前という時代であった。多くの日本人にとって海外へ行くことが夢のまた夢という時代に彼は日本をあとにした。しかもアジアだけでは飽き足らず、その後2度の渡欧も重ねた。いずれもあてのない放浪の旅、その記録・回想記は「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」の三部作として100年近くを経た今でも、本屋の書棚にひっそりと鎮座しながら、誰かが手にするのをじっと待っている。

 リアルな情景が目の前に映し出されるかのような、絶妙な言葉選択のセンスが半端ない。それに加えて緩急自由自在によどみなく流れるリズミカルな文章。さすがは詩人、詩人の面目躍如たる一冊だ。読んでいてすこぶる心地良い。それは滑るように川を進む船のデッキで、ハンモックに揺られて過ごす昼下りのように至福の時だ。風景だけではなくその『音』までも聞こえてきそうな筆力で、現地に行かずとも行った気にさせられる、ぐいぐいと読ませる放浪記。

 若い頃、この本を発端に彼の詩集以外の本をほぼ読み尽くした。海外を渡り歩く仕事に就くとは、まだ予想だにしなかった頃の話だ。その後、“旅”する仕事に就くことになったのには、彼の影響がなかったとは言えないと思う。これらの本以上に旅への意欲を掻き立てる旅情たっぷりな本を他に私は知らない。

金子光晴が鮮やかに描き出すマレーシアやシンガポールを読むうち、私は狂おしいほどその地を旅したくなったのである」

  角田光代金子光晴を旅する」より

 人間の魑魅魍魎、どろどろとしたものをあっけらかんとさらけ出してみせた、ある種の突き抜けた破天荒さをちょっとうらやましく思う。むろん戦前の日本人が皆、彼みたいだったとは思わないが、それでも昔の日本人の方が良くも悪くも抱えるエネルギー量が現代人より大きかったのだろう…と思わずにはいられない。

「バトゥ・パハ川は、ゆったりと流れる大きな川だった。金子光晴の時代と変わらない水の流れが、そこにはあった。…『マレー蘭印紀行』は、異国の川や町の観察を基にした土地の紹介ではなくて、そうした背景を肴にして書いた自分自身の心の探索記とも言えるものではないかと、わたしは考えた。それが、観光記者が書く旅日記ではなくて、何処にいても旅人でしかない放浪者が書く文なのである」

  西江雅之著「異郷日記」

「それは乞食暮しで南方の島から島へ流亡しつつ詩を断念した詩人がちびた鉛筆でためつすがめつ単語を選び、磨いて、書きとめた、無償の傑作である」

  開高健金子光晴を旅する」より

 

    <東南アジアあれこれ>

 東南アジアの街に一様に漂う排気ガスとガソリン、スパイスやハーブの香りが入り混じったあの独特な匂いが不思議と嫌いではない。いや、むしろ好きだ、と思う。道端のけたたましいクラクションとバイクのエンジンの喧騒の中で、あの匂いに鼻孔の奥を撫でられるといつも、どこか懐かしい遠い日の記憶が蘇るような錯覚を覚える。それが幼い頃の日本なのか、もしくは前世の遠い記憶なのかはわからない。しかし不思議と郷愁、ノスタルジーをかきたてられる。

 残念ながら仕事では滅多に訪れるチャンスのない地域であるが、バンコクパタヤチェンマイプノンペンアンコールワットジャカルタ・バリ島・シンガポール…どこもみなそれぞれに良い。初めての海外旅行のバリ島、あの時見た夕暮れ空をあの頃の自分といつもセットで思い出す。卒業旅行で訪れたタイ・パタヤの蒼い海。シンガポールアフタヌーンティーとフットマッサージ(痛過ぎた!終わってから鼻血が出た…)

 さて、旅のワンポイントアドバイス。赤道直下もしくはその周辺に位置する都合上、高地等一部を除き大変に蒸し暑い。そして暑い土地はどこももれなく冷房が強力だ。それは「涼しい」を通り越して「寒い」ことも少なくない。(湿度が高いので「寒い」と言うより「冷たい」と言った方が感覚的に近い)特にシンガポール等の都会、とりわけ女性は冷房よけのカーディガン類の持参をお忘れなく。各通貨への両替は現地到着後で良い。(出発前 日本で両替すべきは基本メジャーな通貨、つまり米ドルやユーロ等、それ以外のマイナーな通貨は現地の方が換算レート良い場合が大半)肝心の食事はベトナムを筆頭に基本的に日本人の口によく合って美味しい。飛行時間も欧米のように長くないし、時差もきつくない。…そう考えると行かない理由がないではないか。コロナも収束した今、まずはアジアから、如何です?

ニュージーランド「マンスフィールド短編集」

「人生は厭わしきもの 涙ー溜息 愛は移ろいゆくもの 人生は厭わしきもの そして…さようなら」

「ああ、人生よ、私を受け入れてほしい。-私を価値あるものとして欲しいー教えて欲しい。私は書いた。顔を上げた。庭の木の葉がざわめく。空は薄く青く、私は泣く。難しいことだ。良い死を迎えることは難しいことだ」 著者の日記より

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 結核により34才という若さで他界した19世紀の女流作家、ニュージーランドの首都ウェリントン出身でその生家が記念館として残っている。学生時代にロンドンに居を移し主な執筆はヨーロッパでなされたが、著作のところどころには故郷であるニュージーランドの面影が垣間見れる。

「玄関前には一握りほどの芝地があって、真ん中にはマヌカの木が立っていた。その木の下のデッキチェアにすわって、…ぼんやりと朝の時間を過ごしていた。…暗く密に茂ったマヌカの木の、乾いた葉…をただ漠然と見ていた」

 ニュージーランド原産の常緑低木、現地でティ―ツリーとも呼ばれるマヌカの木は、近年はマヌカハニ―、ハチミツで世界的に有名になった。現地ガイド氏曰く、有名になるにつれ生産量を上回る量が流通しているとの事だ。残念ながら事実だろう。マヌカハニーは効能の度合いが数字でランク付け表記されているが、本物であれば最も弱いものでも十分効能があるそうだ。自分は逆流性食道炎気味で胸やけのような症状があったが、試しにマヌカハニ―を毎朝起きぬけにティスプーン1杯、瓶が空になる頃には気が付くと症状が治まっていた。(他にもローズヒップオイル等 南半球は紫外線が強いせいか抗酸化作用の高い植物が多い気がする)

 さて、この短編集に収められた「ガーデン・パーティ」は、少女から大人の世界に一歩足を踏み入れたその瞬間を鮮やかに切り取ってみせた名作だ。少女の心の機微が手に取るように瑞々しく語りかけてくる。

    <ファンタジーの国>

 ニュージーランドは個人的に好きな国の一つである。日本人向けの国だとも思う。その理由として

① 時差がきつくない。ハワイのように昼夜逆転するようなことがない。日本から直行便も就航している。

② 日本同様水道水が飲めるし、基本チップの習慣もない。

③ 治安もすこぶる良くスペインやイタリア等のように終始荷物に神経を張りつめる必要がない。

④ 日本と同じ島国で食材が豊富、食事が美味しい。酪農が盛んなのでビーフやラムはもちろんのこと、クレイフィッシュやカキ等のシーフードも豊富、更にブティック・ワイナリーと呼ばれる小規模かつ堅実なワイン農家が多く、良質のワインも生産している。

 更にニュージーランド人は遊びの天才とも言われ、バンジージャンプやジェットボート発祥の地、様々なアクティビティが楽しめる。

 近年はラストサムライはじめロード オブ ザ リング、ホビットナルニア国物語等映画のロケ地ビジネスも伸びている。とりわけ南島の田舎の景色は、映画さながらファンタジーな印象が強い。あの映画で観たあの景色を自分の目で確かめたい方に是非ともオススメしたい国。