至福の読書・魅惑の世界旅行

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日本「ジュリーがいた」 島﨑今日子

「日本人男性はこうでなければならぬとするカチカチのこだわりに、…たったひとりでなぐりこみをかけた」(アートディレクター談)

「彼が作った『叫び』(という曲)そのものなんですね。歌で死にたい。歌で死にます。彼は、今もそのとおりに生きていると思います。…若い頃は、体制側にいるってちょっとよくないなと反発するところはありました。でも、だんだん自分がいろんな責任を問われる立場になると、当然の如く、大変さがわかってきます。降りられない者はどう生きていくのかという美学を感じますね。あの人が18歳の時からそれをやっていたというのは驚きです」(宗教学者談)

「…俺は俺だとやっていけるところが凄い根性です。権威に媚びることがなく、そういう面では気が合ったし、やりやすかったんです。…あくまでエンターテイメントの一部としてやるときは徹底してやる。…普通なら今までのイメージにしがみつくものですが、それを捨てていくのが凄い。あの人にはロッカーとしての矜持があって、根性がある」(衣装デザイナー談)

「ほとんどな~んにも喋らない。黙ってるだけ。…透き通った男前、めちゃくちゃ綺麗やったよ。…自分が男前であることが嫌やったんやないかと思う」(プロデュ―サー談)

「あまりにも綺麗な声でボリュームがあり、はっきり言葉が聴こえて。それまでの我々の歌手や他のバンドの歌手とは、全然違いました。…歌の上手下手ではなく、生れつき持ってるものが違った」(作曲家談)

「…生活態度なんか、普通の人以上に普通というか、まじめだしね」(プロデューサ―談)

「彼の消化力は凄いんです。人の言うことを理解して本質をつかもうという姿勢がある。多くは語らず、彼からこうして欲しいと要求してくることもなかったけれど、普通のアイドルや普通のスターではなかった」(カメラマン談)

「ジュリーの仕事で後味の悪いことって一切なかった。決断したことはやるし、嫌なことは最初に嫌だと言って、途中で覆すことはありませんでした。男らしいなと、いつも見てました。……貫いたからカッコよかったんです。……彼にはブランド志向がありません。大物の人って、自分の見合うだけのネームバリューを求めがちですが、彼にはそれがない。……沢田研二と我々スタッフが違うのは、沢田研二は一生、沢田研二であり続けなければならないんです」(音楽プロデューサー談)

「彼には才能だけではなくて人間力がありましたから、誰もがジュリーのためにとなるんです。僕も、マネージャーの何たるかを彼に学びました。彼がいなかったら今の僕はありません」(元マネージャー談)

「視聴者に楽しんでもらうことへの意識の高さ、その姿勢に脱帽したものです。…若いアイドルに対して俺はお前らより上だなんて態度を見せたことは一切ないですよ。…我々に大御所扱いを求めることも、ありませんでした。だから尊敬できるし、誰もが沢田さんを前にすると自然と敬語になったんです」(TV局ディレクター談)

「マイクやカメラを離れたところの沢田さんは物静かでストイックで、簡単には妥協せずに自分の思いを貫く方だったので、本気で向かわないと相手にしてくれません」(ラジオ番組ディレクター談)

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 ジュリーこと沢田研二の全盛期を中心に直近の活動までを網羅した決定版の一冊。彼の本でありながら新たな彼へのインタビューは皆無、過去に発売されたロングインタビューをまとめた自伝と過去のラジオ番組での発言から拾った言葉や新聞記事がところどころに引用されるにとどまる。多くを語らない当人にかわり、近しい存在であった関係者・スタッフ達が饒舌に語る。マネージャー・付き人・プロデューサー・アートディレクター・衣装ディレクター・作曲家・TVやラジオ番組の制作プロデューサー、はては宗教学者まで。ある意味本人自身が語る以上に、その人となりがすけて見えてくる。

 著者は言う。「…陰も毒もある美貌と佇まいがあったからだが、もう一つ、…早くから他者の視線に自分を委ねることへの覚悟があった」のだと。

 そしてひとりの歌い手の半世紀を超す歴史からは、昭和の世相を映し出す鏡のように、それに重なる時代背景が垣間見えて興味深い。何よりこの本を読みながら、1960~1970年代という時代が持つ猛烈な熱量に圧倒される。半世紀前の日本と現在の日本、徐々に進んだ変化は気づきにくいが、改めてその変貌ぶりに驚かされる。明確な理由もわからないままただぼんやりとした60年代への憧れみたいなものが、この熱量によるものだったのかと腑に落ちた瞬間だ。みんな気力に満ち溢れ勢いがあり、仕事に邁進していた時代。かつてジュリーは次のように語っている。「遊ぶ時間がなくても、仕事が遊びより面白かった」と。元マネージャーも「コンサートひとつとっても、みんな、全身全霊でやっていたんです。ジュリーは完璧主義者で…1ステ―ジ1ステージが真剣勝負でした」と言う。更に長いこと沢田研二のバックを務めた井上堯之バンドの後身の会社には「人情味があって、いいものを作るためなら手弁当でもやるよという人が集まっていました」と言う。全盛期のジュリーはその真剣さに感化されたスタッフ達が互いに共鳴し合いながら相乗効果によって、より大きく飛躍できたのだろう。

「我々の生命活動の痕跡は、我々の成した仕事の中にしか残らない。仕事を離れたあらゆる価値は、人間生命にとっては誤魔化しでしかないのだ。仕事とは文明と自己との葛藤である」 執行草舟著「現代の考察」

2022~2023年ジュリーのコンサートツアーのタイトルは「まだまだ一生懸命」だ。推して知るべし、昭和の遺伝子は健在だ。

 ジュリーにまつわる数々のエピソードの中で、群を抜いて印象的なのが、次のエピソードだ。「今ここに封筒が百枚あって『沢田、明日まで住所と名前書いて、切手貼っておいて』と言われると、あいつは『なんで?』とか聞かずに『はい』と言って、それを一生懸命100%、120%こなす、沢田はそういうやつなんだ。自分の仕事を確実に成し遂げるというプロ意識の持ち主で、本当に真面目で謙虚なやつなんだよ」井上堯之バンドの後任バンドメンバーとしてジュリーと仕事をするにあたり、当時のマネージャーからその心構えを教えられた際の話しとして吉田健氏が語るこのエピソードにノックアウトされた。もうひとつ興味深いエピソードがあったが、長くなるので詳細は割愛する。簡単に言うと当時台頭してきたニューミュージックと呼ばれたジャンルの歌手の扱いに対するTVの姿勢に沢田研二が激怒した話しだ。興味があれば本書を手にとって頂きたい、ジュリーファンでなくとも面白い。

 男性ながらに化粧なんかして…という彼のイメージや先入観を払拭するエピソードも複数取り上げられている。演奏を終えた帰りに難波で喧嘩になり、一発でチンピラを打ち負かしたした沢田の蹴りを見た元タイガースのメンバー・瞳みのる氏は次のように語る。「沢田の喧嘩の強さが脳裏に焼きついて、以後口喧嘩はともかく、彼と殴り合いの喧嘩は絶対にしないように決めた」と。一方当の本人は「仁義なんてないから、喧嘩なんて。先手必勝です」と涼しい顔で語るにとどまる。

 同じようなエピソードはショーケンこと萩原健一の自伝のなかでも語られている。大阪での仕事が終わると、あろうことか暴力団に拉致されたそうだ。ショーケンとジュリーの他に堺正章布施明の計4人。無理矢理車に乗せられて連行されたクラブで「歌え!」と強要された。その緊迫した状況で「歌えないよ」とキッパリ断ったのがジュリーだったと。「偉い、こいつ、度胸あるなあ」と当時の思いを吐露している。容姿を抜きにして男でも惚れそうな話しではないか。事実ジュリーには業界の男性ファンが多数いたという話しを何かの記事で読んだ。いずれにしろ今の時代ではありえない、昭和を象徴するような仰天エピソードだが、若い時分のジュリーの肝の据わりっぷりが半端なくて、ノックアウト三連発だ(笑)

    <昭和の日本を振り返る>

 飯倉のキャンティが当時の著名人の溜まり場として登場している。当時は今のように本格的イタリアンレストランというものが普通に存在する時代ではなく、自分が足しげく通えるのはせいぜいイタリアントマト止まりだった。学校帰りに中華街の南門近くにあったイタトマに立ち寄ってはよくケーキセットを食べたものだ。ユーミンの曲に登場した横浜山手のドルフィンも有名だった。キャンティにしろドルフィンにしろ昭和を象徴する店の一つだ。

 学生時代は元町にあった昔ながらの喫茶店でバイトをした。当時既にバブルの波が押し寄せつつあり、やがてその喫茶店もお洒落なバーガーショップに衣替えをすることとなった。バブルの申し子のような喫茶店のオーナー夫婦は、バイトも含めたスタッフ全員をお洒落な海沿いのプチホテルの広い部屋を借り切って贅沢な打ち上げを催してくれた。あの頃から風情ある個人経営の喫茶店は1軒また1軒と姿を消し、今やチェーンのコーヒーショップとファーストフードが席巻しているのは誰もが知るところだ。

 こうして安保闘争学生運動の時代からしらけ世代と呼ばれる人々を生んだ時代を経てバブル期へと時代は移り変わっていった。20代がバブル期だった自分は、良くも悪くも有り余るほどのその恩恵を享受した一人だ。ダンパ(ダンスパーティー)の企画書まがいの紙1枚を企業にアポなして持参すると、いとも簡単に在庫の賞品をクイズの景品として無償提供してくれた。そしてそのダンパで儲けたお金は、サークルのメンバーみんなで出かけた一泊二日の旅行費用に消えた。その当時 卒業旅行と言えば海外を指したものだ。学生時代にまともに勉強した記憶はほぼない。日本国民一億総出で、浮かれきっていたということが、今にならわかる。しかし渦中にいながらにしてわかった人が果たしてどの位いたのだろう。いずれにしろこんな風に昔を懐かしがるのは、年をとった証拠だ。

 そしてその頃から沢田研二を取り巻く状況は彼自身のプライベートを含めて大きく様変わりしていった。もてはやされた時代ばかりではなかったし、突出していたが故にあれこれ揶揄されることもまた、他のスターの比でなかったことは想像に難くない。また下手に言い繕ったりしない分、誤解を招いたことも少なくなかったであろうことが、本書からも伺い知れる。

 しかし若い頃に語った希望を実現させ半世紀を超えた今も尚 現役という事実、しかも75歳を迎えるその年齢で今だに2万人のアリ―ナ席を完売させるという事実はとてつもなく重い。「継続は力なり」その正しさを証明してみせた彼の覚悟と根性に惜しみない拍手を贈りたい。