アジア「マレー蘭印紀行」金子光晴
小島のしげみの奥から、影の一滴が無限の闇を広げて、夜がはじまる。
大小の珊瑚屑は、波といっしょにくずれる。しゃらしゃらと、たよりない音をたてて鳴る南方十字星が、こわれおちそうになって、きらめいている。
海と、陸とで、生命がうちあったり、こわれたり、心を痛めたり、愛撫したり、合図をしたり、減ったり、ふえたり、又、始まったり、終わったりしている。
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昭和3年から7年にかけて、およそ4年にわたるアジア放浪の旅の記録・回想記である。年に1回・500ドルまでの持ち出し制限付きで日本人の海外渡航が自由化されたのが昭和39年、それより30年以上昔に遡る。昭和4年にツェッぺリンの飛行船が、6年にリンドバーグが日本に立ち寄った、まだ船旅が当たり前という時代であった。多くの日本人にとって海外へ行くことが夢のまた夢という時代に彼は日本をあとにした。しかもアジアだけでは飽き足らず、その後2度の渡欧も重ねた。いずれもあてのない放浪の旅、その記録・回想記は「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」の三部作として100年近くを経た今でも、本屋の書棚にひっそりと鎮座しながら、誰かが手にするのをじっと待っている。
リアルな情景が目の前に映し出されるかのような、絶妙な言葉選択のセンスが半端ない。それに加えて緩急自由自在によどみなく流れるリズミカルな文章。さすがは詩人、詩人の面目躍如たる一冊だ。読んでいてすこぶる心地良い。それは滑るように川を進む船のデッキで、ハンモックに揺られて過ごす昼下りのように至福の時だ。風景だけではなくその『音』までも聞こえてきそうな筆力で、現地に行かずとも行った気にさせられる、ぐいぐいと読ませる放浪記。
若い頃、この本を発端に彼の詩集以外の本をほぼ読み尽くした。海外を渡り歩く仕事に就くとは、まだ予想だにしなかった頃の話だ。その後、“旅”する仕事に就くことになったのには、彼の影響がなかったとは言えないと思う。これらの本以上に旅への意欲を掻き立てる旅情たっぷりな本を他に私は知らない。
「金子光晴が鮮やかに描き出すマレーシアやシンガポールを読むうち、私は狂おしいほどその地を旅したくなったのである」
人間の魑魅魍魎、どろどろとしたものをあっけらかんとさらけ出してみせた、ある種の突き抜けた破天荒さをちょっとうらやましく思う。むろん戦前の日本人が皆、彼みたいだったとは思わないが、それでも昔の日本人の方が良くも悪くも抱えるエネルギー量が現代人より大きかったのだろう…と思わずにはいられない。
「バトゥ・パハ川は、ゆったりと流れる大きな川だった。金子光晴の時代と変わらない水の流れが、そこにはあった。…『マレー蘭印紀行』は、異国の川や町の観察を基にした土地の紹介ではなくて、そうした背景を肴にして書いた自分自身の心の探索記とも言えるものではないかと、わたしは考えた。それが、観光記者が書く旅日記ではなくて、何処にいても旅人でしかない放浪者が書く文なのである」
西江雅之著「異郷日記」
「それは乞食暮しで南方の島から島へ流亡しつつ詩を断念した詩人がちびた鉛筆でためつすがめつ単語を選び、磨いて、書きとめた、無償の傑作である」
<東南アジアあれこれ>
東南アジアの街に一様に漂う排気ガスとガソリン、スパイスやハーブの香りが入り混じったあの独特な匂いが不思議と嫌いではない。いや、むしろ好きだ、と思う。道端のけたたましいクラクションとバイクのエンジンの喧騒の中で、あの匂いに鼻孔の奥を撫でられるといつも、どこか懐かしい遠い日の記憶が蘇るような錯覚を覚える。それが幼い頃の日本なのか、もしくは前世の遠い記憶なのかはわからない。しかし不思議と郷愁、ノスタルジーをかきたてられる。
残念ながら仕事では滅多に訪れるチャンスのない地域であるが、バンコク・パタヤ・チェンマイ・プノンペン・アンコールワット・ジャカルタ・バリ島・シンガポール…どこもみなそれぞれに良い。初めての海外旅行のバリ島、あの時見た夕暮れ空をあの頃の自分といつもセットで思い出す。卒業旅行で訪れたタイ・パタヤの蒼い海。シンガポールのアフタヌーンティーとフットマッサージ(痛過ぎた!終わってから鼻血が出た…)
さて、旅のワンポイントアドバイス。赤道直下もしくはその周辺に位置する都合上、高地等一部を除き大変に蒸し暑い。そして暑い土地はどこももれなく冷房が強力だ。それは「涼しい」を通り越して「寒い」ことも少なくない。(湿度が高いので「寒い」と言うより「冷たい」と言った方が感覚的に近い)特にシンガポール等の都会、とりわけ女性は冷房よけのカーディガン類の持参をお忘れなく。各通貨への両替は現地到着後で良い。(出発前 日本で両替すべきは基本メジャーな通貨、つまり米ドルやユーロ等、それ以外のマイナーな通貨は現地の方が換算レート良い場合が大半)肝心の食事はベトナムを筆頭に基本的に日本人の口によく合って美味しい。飛行時間も欧米のように長くないし、時差もきつくない。…そう考えると行かない理由がないではないか。コロナも収束した今、まずはアジアから、如何です?