至福の読書・魅惑の世界旅行

読書の海・世界の空  海外添乗歴30年  元添乗員の読書&海外旅行案内

バリ島「バリ島物語」ヴィキイ・バウム

・…古き書物は、それを正しく理解したときはには、短剣と同じように強いものです。私はそれから一つのことを学びましたーーそれは私が、…結局は、何ものでもないということです。私は鎖の一環、橋全体のうちのたった一本の竹棹にすぎません。私は偉大なる先祖から受けたものを子孫に伝えなければならない。…私は私の生まれが私を置いた場所にしっかりと立たねばならないのです。私が書物の中に読んだのは、このことです。

・一諸に死ぬことは簡単なことのように思われた。大いなる愛はいつも死と別離と紙一重だ。

・なぜならば、このように神々は定め給うたからであるーーこの島は神々のものであって、人々はただ借りているだけなのだ。

・しかしこれは金銭の問題ではない。我々の矜恃と威厳と誇りとが危機に瀕しているのだ。「私はたとえ戦争になっても結構だと思います」と彼は言った。

・「それは神々の思し召しだからだ。…私は先祖の一人の罪の償いをしているのだ」…運命を認めることを拒絶した時はすでに過ぎ去っていた。いま彼はそれを堪えている。

・彼らは病者だった。追放され、永遠に呪われていた。しかし生活は続けられていくのであった。…彼らのうちに生命の流れを見てとることができた。地の下に泉のこぼれるのを聞くことができるのと同じように。

・戦争だというのに平和な空気が漂っていた。…「なんとすがすがしい空気だろう」…彼らは水をたたえた水田のあいだを進んで行った。田には大空が完全に映っていて、そこには緑色の葉先がのぞいていた。…「私は幸福だ」

・「彼らは我々には決して理解することのできない勇敢さと矜恃とを持っているんだ」「そんなやつらを射たなければならんのは我々にとっても愉快ではない」「しかしやななければこっちがやられるのだ。やつらは気が狂っていた」「聖なる狂気です」

・彼の娘は死に、父親は殺された。しかし彼の心は白人の知ることのない満足で満たされたのであった。

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 インドネシア・バリ島が舞台の史実に基づいた小説で、バリ島の風土・ヒンズー教の風習が驚くほど丁寧に描写され、そこに愛と欲望、希望と絶望、忠誠と服従、そして慈悲…あらゆるものがちりばめられた約600ページの長編。

 その9割がイスラム教というインドネシアにおいて、バリ島は9割がヒンズー教徒である。農民から高僧、領主まで島民の思想に深く影響を与えているのはヒンズー教の教えであり、その聖典バガヴァット・ギーターの一節が複数引用されている。王や領主と共に戦い、殉教をもためらわなかった多くの側近や農民達の行動の背後にあるものは、この思想である。

『心賢き物は行ける者のために悲しまず、はたまた死せる者のためにも悲しむことなし。すべて生くるものは永遠に生く。消えゆくはただ外殻のみ、ただ滅ぶべきもののみなり。精霊に終わりなし。永遠にして不死なり』

『義務と服従とを捨つる者に名誉なし。気高き血統の末たる名誉を失うは死よりも遥かに悪し』

『終りと言い、始めと言うはこれ夢に過ぎず。霊魂は永遠なり。そは生誕と死滅と変化とを超越せるものなり』

 1906年バリ島バドゥン王朝はオランダ軍によって武力制圧され、その2年後の1908年バリ島は完全にオランダ植民地政府の支配下となった。本書でも取り上げられた島民の死の行進に向けられたオランダの残虐行為に対し、世界各国から非難の目が向けられた。本書の話はオランダの武力制圧で終わっているが、その後オランダは悪いイメージを払拭しようと、バリ島の観光開発を推し進め、現在のリゾート・バリの原型が急速に形作られた。しかしその後、第二次世界大戦、更に日本の統治へと続くのだ。

「”最後の楽園”というキャッチフレーズで、バリは欧米の人々が夢見る観光の島となった。…バリ観光の流行は1920年代に始まり、30年代までには絶頂期を迎えていた。

…世界情勢は急変していた。…日本軍による真珠湾攻撃と米英蘭への宣戦布告。…世界は一挙に大戦に突入した。その後、バリは4年間の日本統治時代を迎える。音楽や踊りの観客は日本の軍人となった。バリの芸能は神の代わりに大日本帝国に捧げられるようになった。

…何事も起こらないような穏やかな街の片隅でも、物語は次々に生まれ、そして、ひっそりと消え去っていくのだ」

  西江雅之著「異郷日記」

 現在のバリ島には過去にこうした悲惨な歴史があったことなど微塵も感じられない。長い歴史の中でバリ島だけでなく日本始め世界中で繰り返されてきた生と死、戦争や小さな諍い、喜びや憎しみ、人々の記憶に残っていない無数の物語があったということ、そして人々の生活はこれからも面々と続いていくであろうこと…そんなことをしみじみと考えさせられる良書であった。例えバリに行く予定がなくてもオススメしたい、しかし一旦読んでしまうと行きたくなってしまう本である。

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 私にとってバリ島は特別な場所だ。何しろ初めて訪れた海外がバリ島なのだ。20才直前の春休み、3月だった。到着日、そしてその翌日と猛烈な雨が終日降り続き、とんでもない所に来てしまったとひどく後悔したのを今でもよく覚えている。しかし間もなく雨は止み、その後は帰国する迄連日快晴続きで、すっかり日焼けした。そう、あの猛烈な雨は乾季の訪れを告げる、雨季の最後によくある締めの大雨だったのだ。当時の若い自分はそんなことも知らずに出かけて行った。そもそもバリ島を選んだ理由は、滞在期間が2週間と長いのに他より安く、しかも朝食付きだったから、なのだ。要するに何処でも良かった(笑)

 今から40年ほど前のバリ島には日本人はまだサーファーくらいしか訪れる人がいなかった。しかし欧米人には既にアジアの楽園リゾートとして認知されており、ホテルやレストラン、ディスコ(現在のクラブ)等、それなりに存在していた。それでもまだまだ素朴な田舎の島という風情が、そこかしこに残っており、物価もびっくりするほど安かった。

 むろん現在のような高級ラグジュアリーホテルはまだなかったし、とりわけ貧しい学生旅行で使用している我々のホテルは、ホテルというよりも民宿といった風情で、WCと一緒のシャワーは常に水がチョロチョロとしか出なかった。竹を編んだだけの壁の隙間から差し込んだ外の光が薄暗い室内をぼんやりと照らし、その壁にはいつもヤモリがじっと張り付いていた。が、何しろ初めての海外で他に比べるものもない、こんなものかとすぐに慣れた。オレンジやパパイヤ等毎朝注文してからその場で絞ってくれる朝食のジュースは、ネパールの山奥で飲んだリンゴジュースと並び、忘れられない味だ。もう名前も忘れてしまった沖合の無人島、そしてその島を取り巻く透き通る海。夕暮れ時のビーチで東から西へ深紫色の夜が滲むように忍び寄ってきた夜空。昼間通りを歩いていると必ずどこからか聞こえてきた打楽器ガムランの柔らかな音色。バロンダンス、レゴンダンス、そして暗闇に浮かび上がるケチャックダンスの不思議な高揚感。あの時の自分は気づけなかったけれども、確かにそこは楽園だったと今ならわかる。

「ガラス窓を開けてベランダに出ると、一気に真夏の暑気に包まれた。眼下には、巨大な葉をした羊歯シダが、小さな草花を覆い隠すかのようにして葉を広げている。重たそうな暗緑色の茂みが、石段の脇に連なる。吹き上げる風に乗って、蝶が一匹、また一匹と空を昇る。屋根で山鳩が鳴く。何処からか、寝坊のニワトリの刻の声が聞こえてくる。目の前の茂みの細い枝の合間を、地味な色の翼をした小鳥が二、三羽、小さな声でさえずりながら潜り抜ける。ツバメが猛スピードで空を切る」

「”伝統”とは未来である。”伝統”は実際に行動に移さなければ意味をなさない」

  西江雅之「異郷日記」

著者は言う「しかしバリは変わっていない。どんな侵略にも抵抗して、古い法則に従って生きている」と。