至福の読書・魅惑の世界旅行

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アウシュビッツ 「アウシュビッツの図書係」アントニオ・G・イトゥルベ

・勇気がある人間と恐れを知らない人間は違う。恐れを知らない人間は軽率だ。結果を考えず危険に飛び込む。…僕が必要とするのは、震えても一歩も引かない人間だ。何を危険にさらしているか自覚しながら、それでも前に進む人間だ。

・地図帳のページをめくっていくと、世界の空を飛んでいるような気がしてくる。…広大な海や森や山脈や川や街、すべての国をそんな小さなスペースに詰め込むのは、本にしかできない奇跡だ。

・…戦争という砂漠の中でも、喜びを感じることができた。大人は決して手に入らない幸せを求めて必死にあがくが、子どもはその手の中に幸せを見いだせる。

・恐怖を噛みしめて飲み込め。そして進むのだと。勇気ある者たちは恐れを糧にする。

・将来に夢を持てないとき、人は過去にすがるのだろう。

・収容所に蔓延する失望という病のことはあまり話題にならない。だが、…あきらめた瞬間に命の灯は消え始めるのだ。

・何時間も、列になって待たされる。けれどアウシュビッツの時とは違う。ここではみんな、待つ間にあれこれ計画を立てている。怒っている人もいる。…あの頃よりずっといらいらしている。…そんな些細なことで腹を立てるのは、普通の生活に戻ったということだ。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 事実に基づいて組み立てられ、フィクションで肉付けされた物語であると、著者はそのあとがきにしたためている。

アウシュビッツ…31号棟。そのバラックができてから閉鎖されるまでの間、ユダヤ人の子ども500人が…共にそこで過ごした。そして、誰も予期していなかったことだが、厳しい監視下にあったにもかかわらず、そこには秘密の図書館があった。…たった8冊しかないとても小さな図書館だった。一日の終わり、薬や何かしがの食糧といった貴重品と一緒に、本は一人の年長の女の子に託された。彼女の仕事はそれらの本を毎晩違う場所に隠すことだった」

  アルベルト・マングェル著「図書館 愛書家の楽園」

 つまり主人公の少女は実在したユダヤ人で、プラハ生まれの彼女が9歳の時ドイツ軍がチェコに進駐、両親と共にテレジンのゲットーへ、1年後更に3日3晩飲まず食わずで貨車に揺られてアウシュビッツ第二収容所のビルケナウに送られた。彼女はホロコーストを生き抜き、晩年の彼女の短いインタビューを「テレジン収容所の小さな画家たち詩人たち」という本で読むことができる。ドイツ軍は解放直前、収容者を置いてさっさと撤退したが、その時自分たちの悪行を示す書類を集めて焼き払った。その焼け残りの書類の下に子供たちの絵が残っていた。当時それを2つのトランクに詰めてプラハに持ち帰った人物がいたのである。しかし彼女を含むテレジンの子供たちが残した4千枚の絵と数十枚の詩の原稿は、戦後の混乱で、プラハユダヤ人協会の地下室に20年間眠っていた。それら子供が描いた絵の中に絞首刑の絵がある。そしてその絵を描いた12歳の少年はアウシュビッツで短い生涯を終えた。広島へ行って原爆記念館を訪れた日本人が米国を憎く思うように、この衝撃的な絵を見るにつけてイスラエルモサドが戦後アイヒマンを執拗に追いかけたのもおおいに合点がいくのである。

 世界で初めて強制収容所が誕生したのは南アフリカボーア戦争だと何かの本で読んだ記憶がある。環境は劣悪、衛生状態の悪さは筆舌に尽くしがたいものだったという。まともな食事のも与えられず、やがて疾病、特に肺炎やチフスで次々に命を落としたといわれている。これが後のナチスドイツの悲劇へと続いたのだ。

 ベニスの商人の舞台でユダヤ人のシャイロックが放つセリフ

「私はあなた方のように食べ、眠り、息をしないとでも?あなた方のように血を流すことがないとでも?」

 <観光地としてのアウシュヴィッツ

 強制収容所の代名詞とも言えるアウシュヴィッツが、ドイツではなくポーランドにあることを認識している日本人ははたしてどれくらいいるのだろう?と思う。広くドイツ語のアウシュヴィッツで知られているが、ポーランド語ではオビシエンチムという。

「…車は、1940年から1945年の間におよそ400万人にもおよんだ死者となるべきユダヤ人を運んでいった線路をこえて、アウシュヴィッツというドイツ名で知られるオビシエンチムの町のなかへ、ゆっくりとはいっていった。オビシエンチム~ポーランドの南の国境にちかいちいさな町である。

アウシュヴィッツ収容所は、今日の観光団体の名所めぐりのひとつとなっていた。…収容所の門をくぐると、そこはすでに、収容所跡というにはあまりにもきちんと手のくわえられた収容所「博物館」となっているのだった。…公開されている赤煉瓦の建物のあいだを、ガイドに引率された観光客たちが賑にぎしく、ぞろぞろと歩きまわっていた。それは、しかし、なんと奇怪な観光名所だったことだろう。…正視しがたい展示品が、悪い夢のように、暗い部屋のなかに無言のままひろげられていた…

今日ほんとうに怖しいのは、それらの恐怖と悲惨の記念品である以上に、…信じがたい大量虐殺をすらもはや現在において観光の対象としてしまっているわたしたちの戦後というもののありようではないか。これはまちがいだ、わたしたちは戦後「記憶」というものをこんなふうなしかたでひどくまちがったものにしてきてしまった…ここにいるわたしたちは何なのか?」

  長田弘著「アウシュヴィッツへの旅」

 故長田氏がアウシュヴィッツを訪れたのは半世紀近く昔のことである。著者が近年の様子を見たら、それこそ腰を抜かさんばかりに驚くだろう。拡張された大型バスの巨大駐車場からぞろぞろと続く団体客の波、赤煉瓦の博物館前で入場の順番を待つ人の渦。

当時長田氏が感じたと同じ違和感は、恐らくそこを訪れた多くの人が皆、頭の片隅で同じように感じているように思う。観光客だけを切り取ってみれば、ディズニーランドと何ら変わらない、大半の人々が、まあこんなものかとやり過ごす。ホロコーストの現場にいながら、あえて万人の死と向き合いずらくさせているかのような不自然な据わりの悪さに気づかないふりをしている。

 確かに現在のアウシュヴィッツは観光地ではあるけれども、なんだかんだ言って一般的な観光地とはもちろん違う。かなりへヴィーというか、物見遊山で訪れるような場所では全くない。とりわけ霊媒体質というか、敏感な方は近寄らない方が賢明(詳しくは書けませんけど…色々あります)因みに 一般的なポーランドのツアーではクラクフで2連泊することが多く、午前中にクラクフ半日観光、午後は自由時間、オプショナルツアーでアウシュヴィッツを訪れる選択肢が設けられている事が多い。