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日本「自死の日本史」 モーリス・パンゲ

・何世紀にもわたって…<意志的な死>に誘ってきたさまざまな道筋を注意深く観察した結果、わたしは今でははっきりとこう言うことができる...日本人の持つ あらゆる得のなかでもひときわ優れて美しい得はその生命力である、と。

・<1336年湊川の戦い楠木正成> 武士倫理はここで頂点に達している。血腥い生涯が終わろうとするとき、この男たちが願うのは、もう一度生れ変り、今とまったく同じ生をやりなおすことなのだ。『運命への愛 Amor fati』と言うべきか。…死を前にして彼らは笑う。…敗北すら彼らをうちのめしはしない。というのも敗北は、意志すること、行為すること、生きることへの意欲を彼らから奪ってはいないのだから。

運命というものはただ単に人間にふりかかって来るものではない。運命を愛し、運命にうち克つことを知らなければならない。『運命への愛 Amor fati』、それによって初めて心の平静は得られる。運命への愛を受け入れたとき初めて…意志は安らぎの境に近づく。

・<明治10年(1887年)西郷隆盛> 日本文明の高貴さは敗北者を地獄に落とし、忘却の淵に沈めることを許さない。明治24年西郷は正式に名誉を回復され、天皇は「正三位」の位を彼に追贈する。…あちらこちらに彼の像が立てられる。

・<特攻隊> 諦念と決意とがあるだけだった。…われわれの鼻面を引っぱっている生き続けたいという頑固な欲望からはいずれにしろ隔たっている感じであった。だから彼らは生の細部のひとつひとつに新しい目を向けることができた。雨、太陽、木の葉、それら一切が彼らの眼には今まで以上に美しく、まるで鏡の中の世界のように美しく見えた。一切を与え尽くす彼らには一切が与えられているようだった。…自由という名の風を彼らは全身に受けているのだ。

・高貴とは責任を逃れぬ者にある。高貴はおのが引き受けるべき重荷を重すぎるとは決して言わない者にある。

・もし自己犠牲の武士的伝統が生き残っている場所があるとするならば、それは現代の日本の統一原理である労働倫理のなかにおいてであろう。形を変え、昇華され、非暴力化されて、その伝統はそこに生き続けている。一方それが当初持っていた激しさは、…あの有名な日本のヤクザの世界に生き続けることになる。

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 日本における意志的な死に的を絞ったフランス人日本学者による日本文化論。外国人にここまで詳しく我々日本人のことを論じられては立場がない気がしなくもないし、正直 現代日本人には当てはまらない点も多々ある。それでも日本という国に、また日本人に興味をもってこれだけの大著を残してくれた著者に敬意を表したい。

 米国の国際政治学者サミュエル・ハンチントンは、日本には固有の独特な文明があり、その日本文明は、他の文明とは異なり、この一つの国に特有のもの、日本は文明としては全く孤立した存在であると説いた。そしてまた、他のすべての主要な文明には複数の国が含まれるが、日本文明は日本という国と一致しているという点において、特異であるとも指摘している。(世界的ベストセラーとなった「文明の衝突」あるいは「文明の衝突と21世紀の日本」などに詳しい)”自死” に絞って考察したこの日本文化論を読むと、同意せざるを得ない。そもそも外国人から言われるまでもなく、我々日本人自身が常々感じるところではなかろうか。事実 世界各地を旅してまわって、メンタリティの違いを感じることは珍しいことではない。しかしながら主君に尽くすという点において、日本の武士道とヨーロッパの騎士の間に相通ずる点も見いだせる。

 かつて古代ローマポンペイウスはスペイン人の性格を「死に対して準備のできた魂」と定義したそうだが、スペイン市民戦争で銃殺されたアンダルシアの詩人ガルシア・ロルカは 次のような言葉を残している。

「あらゆる国において死は一つの結末である。それがやって来ると、人は幕をおろす。スペインでは違う。スペインでは人は幕を上げる。…死は、スペインでは、他のどこにおける死よりも、生命力にあふれている」

またチェ・ゲバラの革命戦争回顧録の中にこんな一節がある。

「”決死隊”は当時の革命軍の士気を物語る一例で…志願しても選抜されなければ加われなかった。決死隊の隊員が一名戦死すると…大志を抱くものが新たに指名されると、選ばれなかった者は悲嘆に暮れて涙までこぼした」

なんだか日本の武士みたいではないか。

もののあはれがさまよふ。蘭や菊のにほふ昔がたりを人は、千年くりかえす。この国でもっとも新鮮なものは、武士道である」

  金子光晴の詩「風景」より

 また一言で自死と言っても個人個人から民族、文明に至るまで幅広いということは、英国人ジャーナリスト、ダグラス・マレー著「西洋の自死」に詳しい。「欧州は自死を遂げつつある」というセンセーショナルな文章ではじまるこのベストセラー本は、欧州という文明が今まさに瀕死の状態にあり、しかもそれは欧州人自らが引き起こしたという厳しい現実を白日の下に晒してみせた。

「我々人間はすべてにおいて、”死にたくない”という内向的な希望を心に抱いている」

という詩の言葉を残したのはスペインの哲学者ウナムーノだった。2020年 人類は新型コロナウイルスから逃れるべく右往左往し、その見えざる敵がもたらす死に恐怖した。

自然農法の創始者である福岡正信氏が半世紀前に残した言葉。

「一匹のカビ菌も病原菌も棲息しないように清潔にされた都会では、かえって人智を絶した強力なカビ菌が人間の崩壊を目指して、その周囲を取り巻いているのだ。…神の意志については何ほども知りえない科学者は、最大の道化役者にすぎない」

人類を崩壊させかねないその相手がよりによってカビ菌より更にずっと小さなウイルスだったとは。

 しかし、自死を遂げつつあるのが欧州だけではないとしたら、例えウイルスにしても、それは些細な問題なのかもかもしれない。

      <日本という国>

 暫くの間 海外で過ごして、帰国後 成田空港から自宅へ戻る途中のリムジンバスの座席に腰を沈める。仕事の緊張から解き放たれる瞬間だ。窓ガラス越しに見慣れた景色をぼんやりと横目に見ながら、日本に帰ってきたなと実感するのは、日本特有のその空気に包まれた瞬間だ。普段の生活からはなかなか認識しずらいけれども、いったん日本を離れ 帰国した時にその違いは感じやすい(と思う)。例えば砂漠ならチリチリとしたどこか荒ぶる感じ、アイルランドなら道端に妖精がちょこんと腰かけていそうな、中南米ならガルシア・マルケスの小説のように濃密で混沌とした感じ。その土地がもつ特有の空気はそれぞれに異なる、確実に。日本のそれはとても細かな振動とでもいえばいいのか、うまい言葉が見つからずもどかしいのだが、鎮静化されたような感じだ。そしてそれは奥深いところから私の心を落ち着かせる。

 むろん目に見える違いは枚挙にいとまがない。日本に帰国して空港の低いトイレに腰かけると、あぁ日本に戻ったと実感する。そして当たり前に鎮座するウォシュレット。コンビニ店員の変わらない丁寧な対応、電車の過剰なアナウンスとエレベーターの音声案内、整列乗車、などなど。日本を離れることによって逆に日本を知る、見えてくるものがある。